別府氏城歴史

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 南北朝の時代から室町中期にかけて飛躍的な活躍ぶりを見せた武蔵北白旗一揆ですがその勢力は次第に衰えて結束力も弱まっていきます、その同時期に成田氏が力を伸ばつつあり成田下総守親泰は近隣の忍氏を滅ぼして忍城を築城し更に別府と同じ熊谷市内の中条館を大里方面(現熊谷方面)統治の拠点とします、それにより現熊谷市地域は成田氏の勢力圏と成り別府氏は同族の玉井氏、三ヶ尻氏と共に成田氏の傘下に下ったのです、成田傘下と成った後も別府氏の活躍ぶりは変わらず別府氏、玉井氏、三ヶ尻氏は成田三氏と呼ばれ成田家の中核的立場にいました、しかし別府義行から数えて12代目の長清は1590年(天正18年)小田原の役に措いて成田氏長と共に小田原城に籠城し豊臣軍に滅ぼされ別府氏城、西別府館は廃城と成りました、平安末期より400年以上に渡り別府郷を統治し続けてきた別府氏はここで終演を迎えたのです。

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成田氏傘下へ

 南北朝期の別府氏は武蔵北白旗一揆に属して北朝方に付きます、当時中小武士団は各地で一揆と言うかたちで同族同氏が軍事的同盟を結びその力を固持していました、別府氏も同様に武蔵北白旗一揆の中でその存続を維持していたのです。
 東別府に在住した義行を祖とする別府幸実(尾張守)は足利尊氏につき北畠顕家を陸奥から京へ追い伊賀、伊勢を転戦したとされ観応の擾乱に措いては武蔵北白旗一揆として尊氏の弟直義征伐で活躍し1352年(正平7年)尊氏より恩賞として別府郷並び越生郷の地頭職に任命されます、更に別府幸忠の代に武蔵北白旗一揆は上杉禅秀の乱で公方持氏軍として活躍し乱終結後に幸忠は同族で禅秀与党であった玉井氏を追討したとされています、以上の様に室町初期の別府氏は一環して武蔵北白旗一揆と動向を共にしたのです。

 別府氏は鎌倉幕府草創期に幾つかの活躍をしています、1184年(元暦元年)東別府に居住した義行は源頼朝の木曽義仲追討の時に源範頼に従ったとされ香林寺を建立した別府清重は1183年(寿永2年)に源義経に従い一の谷の合戦で功をあげますが1213年(建保元年)和田氏の乱で和田義盛に味方し討ち死にしました。ただし義行、清重らの活躍についてですがあくまで文献上記載のものであり成田氏系図と横山党系図で別府氏の系統が異なる為に事実はさだかでは無く両者が生存した時代、動向については他の事実と混合している可能性はあります。

 熊谷市の別府には東別府の別府氏城と西別府の西別府館が存在します、別府氏については異説が幾つか有りますが成田氏系図によれば平安末期の頃の成田氏の出であり成田助高の二男行隆が別府の地を領有し別府氏を名乗ったのが始まりでその行隆の長男義行が東別府に居住し二男行助が西別府に館を構えたとされています。

武蔵北白旗一揆

鎌倉期の別府氏の活躍