岩槻平林寺

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 1375年(永和元年)太田道灌の祖先である太田備州守は鎌倉円覚寺第29世住職を務めた石室善玖を招き崎西郡渋江郷金重村(さいたま市岩槻区平林寺)の地に金鳳山平林寺を建立しました。
 1544年(天文13年)〜1591年(天正19年)に至り平林寺住職を勤めた泰翁宗安は足立郡原宿(上尾市)、野本鎌倉方(東松山市)、加倉(岩槻区)の一部の代官職も勤め僧侶の立場で兵を率いていました、また戦乱に備え平林寺の敷地を土塁、空堀で囲み僧侶、在家の人々に武装させました、例えて言えば一向一揆で知られる石山本願寺、比叡山延暦寺などと同様に自主的な防衛手段をはかっていたのです、ただ平林寺と石山本願寺の大きく異なる点は本願寺の様に政治的、経済的、防衛上の自主、自立、独立ではなく平林寺の場合あくまでも防衛上の自主であり政治的、経済的には岩槻城主太田氏または小田原北条氏の保護を受けていました。

岩槻平林寺址

 新編武蔵風土記稿の平林寺蹟に(村の西にあり、寺地の四町程ありて陸田となれり)とあります、一町歩100m四方ですから四町だと正方形に例えて大凡200m四方程の敷地面積であったのでしょう、戦闘に備えてその敷地は土塁、空堀で囲み各入り口には木戸を設けていました、現状、本堂が建立していたと思われる地に平林寺址の碑とその脇に当時から残る枯木が在ります。

空堀址?

平林寺址の碑と当時の枯木

 水戸市の茨城県立歴史資料館に展示されている下妻市大宝八幡神社の古釣鐘に「武蔵州崎西県渋江郷金重村金鳳山・・・・」と刻まれています、金鳳山以下は削り取られていますが平林寺の釣鐘であった事は間違いありません、でわなぜ平林寺の鐘が下妻に存在するのでしょう?1454年(享徳3年)古河公方足利成氏と関東管領山ノ内上杉氏が争う享徳の乱の最中相模国に出兵した足利成氏の配下の諸氏がその帰路のさいに持ち去り下総国幸島郡の星知寺に吊るしたとされ更に1573年(天正元年)幸島郡に侵入した下妻城の多賀氏が持ち去り大宝八幡に奉納して現在に至っているそうです。

平林寺の釣鐘

在寺当時の平林寺周辺

 地域の人達はこの枯木を枯木様と呼んでいます、また枯木の周辺には当時の空堀と思われる地形が見られます。

平林寺北の段丘

 平林寺の碑から200m〜300m北側は段丘状の地形で防備に適しています、更にそこから500m程北には元荒川が流れその対岸には鎌倉街道が通っていました。

 土塁、空堀で囲まれた平林寺ですが寺の防備は敷地周囲に止まらずその外側の寺領、在家集落の周囲にも及んでいました、平林寺南方500mを流れる綾瀬川と侵食により削られた段丘を南の守りとして北側も同様に段丘状の地形を守りとしていました、その間南北の段丘をつなぐかたちで平林寺西方に土塁、空堀が長く築かれ段丘と土塁、空堀で寺領と周辺集落を囲んでいた様です。

平林寺址周辺に点在する庚申塚

 この付近(平林寺近辺)には鎌倉街道中道(日光御成道)の枝道でも通っていたのか庚申塚が点在していましす。

南北の段丘を繋ぐ土塁、空堀

 平林寺の西方には土塁や空堀の址と思われる地形が見られます、南北の段丘を結び西の防備としていた様です、また折りが設けられた址が在り虎口の存在を思わせます。

綾瀬川と南の段丘

 南方は綾瀬川を濠としてその河川の侵食により形成された段丘で南の防備としていました、段丘上には土塁址が見られます。

 平林寺から600m南西の綾瀬川の段丘上に長左衛門新田(岩槻区河合地区付近)と呼ばれた開墾地が在り在寺当時此処に平林寺の寺領が存在しその寺領を守るかたちで土塁が築かれていました、現在もその址が残っています、平林寺は寺、寺領、在家集落をふくみ2重の防備で固めた要塞寺院であったのです。

長左衛門新田の土塁