新座郡野火止平林寺

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平林寺へのアクセス

 東武東上線朝霞台駅またはJR武蔵野線北朝霞から西部バス東久留米駅行き、新座営業所行きで
平林寺前下車

 東武東上線志木駅から西部バスひばりヶ丘駅北口行きで平林寺前下車

 西武池袋線東久留米駅から西武バス朝霞台駅行きで平林寺前下車

 西武池袋線ひばりヶ丘駅から西部バス志木駅行きで平林寺前下車

 上記写真の左が支流で右が本流です。

野火止用水

 野火止用水は現在の東京都立川市幸町で玉川上水から分水され小平市、東大和市、東村山市、東久留米市、清瀬市を経由して新座市野火止へ繋げられ志木市まで延びていました、更に平林寺境内にもその支流が通されていました、主に野火止用水の用途は飲料用水、生活用水、農業用水でした。

 仏殿の裏手には中門を小口として本堂がたたずんでいます。

平林寺の境内の風景

中門と本堂

三門

(埼玉県新座市野火止平林寺惣門)

 1590年(天正18年)豊臣秀吉による小田原城攻において岩槻城は浅野長吉ら西国方の軍勢の攻撃を受けます、時に岩槻平林寺は高齢であった住職泰翁が岩槻城へ非難し代わりに留守居の者が守備に付いていましたが戦火で聯芳軒を残して全て焼失してしまいました、1591年(天正19年)関東に入国した徳川家康は鷹狩の途中焼失した平林寺に立ち寄り寺領50石を寄進することを約束します、同年泰翁は死去し無住と成った平林寺に家康は駿河国より鉄山宗鈍を招き平林寺の再興を託しました、その鉄山とは甲斐武田氏の家臣窪田氏の嫡男として生まれ出世して駿河国臨在寺の住職と成り1576年(天正4年)武田信玄の葬儀に措いては執骨役を務めた人物です。
 再興された平林寺は川越藩主松平家の菩提寺と成りました、1639年(寛永16年)松平信綱は菩提寺である平林寺を岩槻から松平家の知行地である新座郡野火止への移転を当時の平林寺住職幽巌祖岑に希望しますが幽巌は水利の乏しい野火止への移転を断ります、しかし玉川上水の開削事業に着手していた信綱は同時に野火止の開拓も進めていました、幕府に玉川上水から野火止への分水を願い出たところ認められて野火止用水路の追加工事が行われる事により野火止の水利環境が整えられ1663年(寛文3年)信綱の子輝綱の代で漸くと平林寺移転が実現されたのです。

 総門をくぐると三門が在ります、平林寺は総門、三門、仏殿、中門、本堂が一直線に並ぶ典型的な禅宗伽藍と成っています。

 56ヘクタールに及ぶ境内林は天然記念物に指定され杉、檜、赤松などが見られます。

仏殿

 更に三門を抜けると仏殿が在ります、総門、三門、仏殿、中門の屋根は総茅葺造りで県指定有形文化財と成っています。