本庄城の歴史
北条氏の支城と成った本庄城ですが1590年(天正18年)豊臣秀吉の小田原攻めの際に西国軍に攻められ落城し本庄氏は滅亡します、その後本庄城には北条氏の旧臣小笠原信嶺が徳川家譜代の大名として入り本庄藩一万石を知行し1612年(慶長17年)小笠原氏古河移転に伴い本庄城は廃城となります、しかしその城下は中山道に接していた為に中山道の宿場町として発展し続け現在の本庄の町の基礎となったのです。
本庄藩一万石
本庄城が築城されたのは1556年(弘治2年)です、1546年(天文15年)の関東管領山ノ内上杉憲政、古河公方足利晴氏、扇谷上杉朝定による川越城撤回作戦は北条氏康に大敗し上杉朝定は討ち死に、公方足利晴氏は北条氏に降伏し管領上杉憲政は上野国平井城へと後退します、更に1552年(天文21年)平井城も北条氏康に攻められ落城し憲政は箕輪城へ逃げ込みそこから長尾景虎(上杉謙信)を頼り越後へと逃げ去ります、それにより武蔵北部の管領家の旧臣達は北条氏に対して降伏又は自主的防衛作をもって抵抗するかの選択を余儀無くされます、そういった時代背景の中で小田原勢力に対抗すべく本庄実忠により本庄城は築城されたのです。
さてそれら北武蔵の対抗勢力にとって唯一の頼みが越後の長尾景虎で1561年(永禄4年)憲政より関東管領職を譲り受けその就任の為の鶴岡八幡参拝の際には小田原城を包囲するに至ります、しかしその後の謙信の関東進出は活発化を無くしこの期に乗じてに北条氏は太田氏、三田氏、本庄氏など謙信についた管領山ノ内家の旧臣達に攻撃をかけます、そして1567年(永禄10年)本庄城は鉢形城主北条氏邦により落城させられ本庄氏は北条氏の配下と成りました。
築城の背景から北条氏の支城と成るまで
本庄城は武蔵七党の児玉党の一派本庄氏により築城されました、本庄氏は平安末期の頃に本庄市付近を領有していた児玉党荘氏を祖として荘小太郎頼家の代に本庄氏を名乗ったと云われています、その後本庄氏は戦国末期に至るまで在地領主としてこの付近一帯を支配するのです。