五十子城遺構
小山川と女堀川との合流地点に在る5mほどの高地を利用して築かれた五十子城は1454年(享徳3年)鎌倉公方足利成氏が関東管領山ノ内上杉憲忠を殺害する事によって起きた享徳の乱の勃発直後に管領上杉氏が上野国、武蔵国、相模国との連絡路である鎌倉街道上道、中山道の守りとして築城したのです。
現在その遺構は国道17号線工事の為に全く存在していませんが、古い資料などから東、小山川沿いに物見用と思われる小ぶりな郭があり、西に向かって堀を挟んで本郭、本郭から折りを付けた巨大な堀を越えて二ノ郭、そこから女堀川の対岸に五十子城最大の郭が存在していたそうです。
城、最東端の小山川沿いの郭
本郭と二ノ郭の間の堀に大手が存在する。
女堀川
ニノ郭と西側に存在したとされる巨大な郭を仕切る形で流れる女堀川
中山道、(徬示堂宿、牧西宿、堀田宿、)を見る。
五十子城は(鎌倉)相模、武蔵、山ノ内の本拠地、上野国とを結ぶ主要幹線、鎌倉街道上道、中山道を押さえる為に築かれたのです。