五十子城の歴史

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 鎌倉と山ノ内上杉氏の本拠地上野を結ぶ中山道の押さえとして築城された五十子城は享徳の乱の最中、絶えず戦場と成り管領軍の前線基地として歴史の表舞台に幾度も登場するのです。
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 当初、管領軍は武蔵国分陪河原、同国騎西城、同国大里郡岡部原で成氏方に敗北、事実上管領方の反撃態勢が整ったのは1457年(長禄元年)で管領山ノ内上杉氏の親族である扇谷上杉氏の家臣、太田資長(太田道灌)が河越城を拠点として江戸城を築城して自ら入り、岩槻城を太田道真(道灌の父)が守り、五十子に上杉方の陣所(五十子城)を築城しましす。成氏は幕府の命を受けた今川範忠の追討を逃れるため鎌倉を出て下総古河に入り古河公方と称して宇都宮、小山、結城、佐竹、小田氏ら関東北部の有力武士団から支援されていました、それら北部勢力と退陣するために道灌は河越城を中心とした江戸城、岩槻城、五十子城の防衛ラインを固めたのです。更に室町幕府将軍の近親、渋川義鏡が援軍を引きつれ総大将として下向し、幕府の成氏追討の意思を関東諸氏に示すため将軍義政の弟政知が関東公方職に就任、堀越公方として伊豆堀越にて御所を構え関東武士達に古河公方足利成氏討伐の号令をかけます。ここで要約管領方の反撃態勢が整ったのです。

管領方の反撃

 1428年(正長元年)室町幕府五代将軍足利義持が死去、継いで義持の弟、義教が六代将軍へ就任します、時に関東の将軍職、鎌倉公方足利持氏は自らが室町幕府将軍と成る事を望んでいた為に義教と対立し幕府に討伐され自害させられます、その後の10年間、関東に措ける公方職は空白状態と成りますが1449年(宝徳元年)持氏の子、永寿王(足利成氏)が上杉氏から推薦され鎌倉公方職に就きました。足利成氏は関東での鎌倉府体制を築き上げ様と勢力拡大を図りますが上杉氏の重臣、太田、長尾氏にそれを阻止され、その報復に関東管領山ノ内上杉憲忠を殺害し享徳の乱が勃発します。

 

 五十子城が最初に文献の中に登場するのは鎌倉大草紙に1457年(長禄元年)に室町将軍足利義政の弟、政知が伊豆堀越に下向し堀越公方と成ったのと同じ時、(武州五十子に陣を取り成氏勢と退陣)とあり、享徳の乱で上杉方が成氏方に対し、反撃に転じた頃に築かれたと考えられます。

享徳の乱

 態勢を整えた管領陣営ですが1466年(文正元年)管領山ノ内上杉房顕が五十子の陣中にて死去、山ノ内顕定が次の管領と成り、1473年(文明5年)には山ノ内家執事職の長尾景信が没し、同年扇谷上杉政真が五十子の陣で成氏と退陣、討死します。この様に乱鎮圧の主体的メンバーの相次ぐ死によって管領方の体制に大きな変化が訪れます、そして1476年(文明8年)景信の死後その跡目問題に不満を抱いた景信の子景春が山ノ内家に反旗を起こして上杉顕定の居る五十子の陣へ攻撃を仕掛け更に翌年、再度の攻撃では顕定らを上野国まで後退させるのです、管領軍は崩壊寸前と成ります、そこで登場したのが扇谷上杉の家臣太田道灌、道灌は崩れかけた管領軍の状況を立て直し、なんとか乱を鎮圧するのですが山ノ内顕定の中称から主君扇谷殺害され山ノ内家、扇谷家も後に分裂し関東は戦国乱世へと向かって行ったのです。

戦国乱世へ