金窪城、金窪南城の遺構
(金窪南城イメージ)
金窪城は武蔵国と上野国の国境である神流川から1km東に存在する平城です、更に金窪城より500m南の陽雲寺は金窪南城と呼ばれ金窪城の出城でした、両城共に15世紀後末から16世紀末にかけて斉藤氏の城で国境の守りの城として重要な役割を果たしていました。
金窪城
現状金窪城の遺構は一部の土塁を残して他は存在していません、その大凡の規模は東西、南北共に200m程の方形状と推定され東西へ流れる忍保川を北端の濠としています。
金窪城の推定範囲
内部の縄張状況は不明です。
北端の濠忍保川
城址公園前に残る土塁
現存する唯一の遺構です。
金窪南城
金窪南城の遺構は陽雲寺の東から北にかけての土塁、空堀が残っています、南城は東西150m程、南北120m程の金窪城と同様に方形状の平城です、北東部の土塁がくの字状に内側へ折れ曲がり横矢の仕掛けを備えた虎口で大手口と考えられます。
陽雲寺の周囲に残る土塁
北東部の虎口
大手口と推定されます、横矢がかけられる様に土塁がくの字状に折れ曲がっていました。
陽雲寺
1528年(享禄元年)斉藤盛光、定盛により南城内に創建されました。
陽雲寺西の主郭
2003年9月最初に自分が南城を訪れた時に付近の農家の人が(この土塁は昔、寺の後ろの農道まで延びていた)と語ってくれました、陽雲寺の後方70m程西に農道が在りそこまで土塁が続いていたと言うのです、その点から考えると陽雲寺の西に別の郭が存在していた事に成ります、当初陽雲寺境内が南城全体の縄張と自分は考えていたのですがそれは間違いでその後ろにもう一つの郭が在ったのです、しかし陽雲寺は南城築城後に創建されたのでこちら側の郭が元々の南城(主郭)で陽雲寺側の郭は後に増設されたのではないでしょうか?