金窪城の歴史

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 斉藤氏滅亡後に北条氏の管理下と成った金窪城ですが1590年(天正18年)小田原の役において金窪城は又も落城し後に関東に入府した徳川家の旗本川窪信俊の陣屋となりました、川窪信俊は武田信玄の弟信実の子で武田勝頼に属していましたが武田家滅亡後に家康に召しだされ川窪と改名して徳川家に使えたのでしす、金窪城と金窪宿の管理を委託された川窪氏ですが1698年(元禄元年)今の兵庫県丹波国に転封が決まり金窪城は廃城と成ったのです。

その後の金窪城

 永禄、天正年間に金窪城と周辺の城はは国境の城である故に甲斐武田氏、越後上杉氏の攻撃に幾度もさらされます、1582年(天正20年)織田信長は本能寺の変で明智光秀に殺害されました、その事は関東においての勢力関係に大きく影響し北条氏政は織田氏の旧領で家臣滝川一益の守る上野国に侵攻を開始します、これに対して一益は武蔵国に侵入し鉢形城主北条氏邦の軍勢と神流川流域で対陣北条軍を後退させました、この合戦で金窪城は落城し斉藤氏は一族の大半が討ち死にして滅亡します、その後滝川一益は北条氏直の軍勢に破れ上方へ敗走しました。

神流川の合戦

 金窪城は平安末期の治承年間(1177〜1181)に武蔵七党の丹党一派である加治家季により築城されました、その後元弘年間(1331年〜1334年)に新田義貞により改修され家臣の畑六郎左衛門時能が居住したと伝えられています、15世紀中頃には平安末期の保元の乱、平治の乱で活躍した長井斉藤実盛の子孫で関東管領山ノ内上杉氏の家臣長井斉藤盛光が入ります、長井斉藤氏は管領上杉氏没落後には小田原北条氏に属しました。