皿尾城の歴史
皿尾城は1561年(永禄4年)忍城攻めの為に上杉謙信が築城し木戸監物入道を城主に添えたとされています、又同年永禄4年に忍城の出城であった当城を謙信が攻略し監物入道を入れたとも云われています、何れにせよ此処皿尾城は永禄4年の時点で上杉謙信の忍城攻めの城であり監物入道がそれを守っていたのでしょう。
事の始まり
謙信の皿尾城軍勢配置に関して謙信と忍城主成田長泰との間にちょとした因縁話があります、謙信が皿尾城に軍勢を置いた前年の1560年(永禄3年)長尾景虎(上杉謙信)は関東管領山ノ内上杉憲政に次期関東管領に任命されその就任式と小田原北条氏征伐の為に関東に向かいます、途中厩橋に入り翌年の永禄4年に小田原城を包囲し鎌倉の鶴岡八幡にて関東管領の就任式を行いました、成田長泰が景虎に一言礼を尽くそうと八幡宮門前にて馬上で待っていたところ景虎が出てきてそれを見るなり管領に就任した自分の前で馬上にいるとは何事だと長泰を馬から引きずり下ろして叱咤しました、大衆の面前で恥をかかされた長泰は早々に忍城に帰りそのまま北条方へ転じてしまいした、又景虎に参同した関東諸氏達もその有様を見て景虎の人間性を疑い次々に帰国していったのです、謙信は就任式をぶち壊しにされた事と北条方に寝返いった事で長泰に対して特別な恨みを持ち成田に一泡ふかせてやれと忍城攻めを計画し皿尾城に兵を駐屯させたのです。
謙信の執着心
謙信が皿尾城に兵力を置いた理由は2つ有ると考えられます、一つに忍城に牽制をかける為ともう一つに忍城の北側皿尾城から利根川にかけて広大な水田地帯が広がりここから収穫される農作物は成田氏の財源でありました、その水田地域に軍勢を配置して税収を絶ち成田氏に経済的圧力をかける為であったのです、しかし謙信は騎西城など支城を攻略する事はできましたが本城の忍城を攻め落とす事はできませんでした、一説には皿尾城の木戸監物が裏切り成田と組んだので謙信は皿尾城を焼き払ったとも云われています、川中島の戦い、織田信長との決戦当で忙しい中、謙信の個人的恨みから忍城に執着した事は後々関東制圧失敗の要因の一つであったかも知れません。