平沢寺
12世紀末、比企郡嵐山町に京都の平等院と同様の浄土庭園を持つ寺院、平沢寺が武蔵国の有力武士畠山氏によって築かれました、その規模は当時東国最大の敷地を持つ寺院と云われ36もの僧坊があり、源頼朝の乳母比企尼の屋敷も寺内に存在していました。
平沢寺参道
平沢寺の参道は鎌倉街道上道へとつながっています。
平沢寺、方三間堂と浄土庭園
平等院や奥州藤原氏の建てた平泉毛越寺と同様に平沢寺にも浄土庭園が存在していました、平沢寺は華麗な平安文化を取り入れた寺院であったのです。
1488年(長享2年)関東管領山ノ内上杉顕定と扇谷上杉定正が太田道灌殺害を切っ掛けに菅谷原にて激突し山ノ内方の本陣が平沢寺に置かれました、両者対陣の最中、山ノ内方本陣平沢寺に太田道灌の旧友である都の高僧万里が呼ばれ管領上杉顕定、太田資康、三浦道寸、などが参列して歌会が開かれました、時に万里は「敵塁と相対し風雅を講ず、西俗には此の様なし」、敵と対陣しながらも風雅を楽しむなど都ではあり得ない事と延べています、最前線に措いても風土と心を一つにしてゆとりを持つ、これこそ東国文化なのです。