小倉城の歴史
小倉城は小田原北条氏の三家老を勤めた遠山氏の城です、築城年代は大凡16世紀中頃で北条氏が比企地方の勢力権を握った時代と云われています、江戸城代遠山康景の弟直親が当初小倉城の城主でしたが1564年(永禄7年)国府台の合戦で康景が討ち死にした為に直親が江戸城代と成り直親の子光景が小倉城主と成りました。
小倉城の役割
さて小倉城を築城した理由ですが鎌倉街道の脇街道が玉川村から小倉城の辺りで槻川へ交わるかたちで繋がっています、そこから槻川沿いに東方へ進むと菅谷宿に出られ西方に向かえば小川町に繋がります、小倉城は鎌倉街道の抜道を押さえる為に築かれた城です、ただ四方を小高い山々で囲まれている為に他の支城との連絡や物見の城としては不向きでした、また上田氏、難波田氏と同様に松山衆の仲で重要な位置にある遠山氏を城主に添えている点から小倉城は北条氏が比企郡西部を統治する上での中核的城であったと考えられます。
遠山郷
小倉城の北西の眼下に広がる遠山盆地から1万5千枚もの渡来銭や天目茶碗、丹波焼壷などが土出しています、この事から遠山郷は当時比較的裕福な階層の人達、所謂上級の武士達の集落が在ったと考えられます。
(遠山盆地と出土品)
(奥に見える小高い山が小倉城です)
中世の中頃から比企地方では江戸経由で西国との交易が盛ん行われていました、江戸から荒川へ入り更にそこから都幾川へと入り菅谷館付近で荷おろしされた品々を遠山郷に居住する家臣団の一族が買い付けたのでしょう、これら高価な品々や大量の渡来銭を所持する事のできる裕福な家臣達の集落が此処遠山郷に存在していたのです。