松山城の歴史
松山城が最初に築城されたのは1333年(元弘3年)の元弘変の際に新田義貞が鎌倉幕府攻撃のためこの地に城を築いたのが始まりで後に秩父党河越氏、高坂氏などの衰退後比企郡に勢力を持った扇谷上杉氏の家臣上田氏により大々的に改築されました。
北条、武田、上杉、扇谷上杉の攻防戦
1537年(天文6年)の北条氏綱による松山城攻撃から1569年(永禄12年)に上杉輝虎(上杉謙信)と北条氏政が和解するまで30年間に及び北条、武田、上杉、扇谷上杉による攻防戦が繰り返されました、天文6年の氏綱による攻撃のおり、扇谷上杉朝定が松山城に居て難畑善銀が城を守っていました、善銀の必死の抵抗のため氏綱は撤退しましたが9年後の1546年(天文15年)河越夜戦で北条氏康に関東管領山ノ内上杉、古河公方、扇谷上杉の連合軍は大敗、その後松山城は北条氏康に明け渡されます。1559年(永禄2年)長尾景虎(上杉謙信)は越後から北条氏征伐のため出陣し厩橋に入り翌年の永禄3年に小田原城を包囲した後に鶴岡八幡にて関東管領就任のための参拝を行い越後へ帰りました、この時、古河公方、長尾、太田氏による反北条氏の動きが有り松山城を撤回して上杉憲勝を城主に据えます、その後、松山城は北条氏に取り戻されますが永禄5年に上杉輝虎が沼田に出陣した際に輝虎の家臣北条高広に占領されました。永禄6年に北条氏康、氏政親子の再度の撤回作戦が行われ、そこに武田信玄の軍勢が甲相同盟により加わり松山城を取り戻します、結論この松山城争奪戦に終止符がうたれたのは第2次国府台の合戦の勝利により関東における優位を占めた北条氏と上杉謙信の間で和議が交わされた時に松山城の帰属問題につい講じられ松山城は上田氏の城である事がはっきりと決められ(事実上は北条氏の持ち城であった)一件落着と成ったのです。以上の様に1537年から1569年にかけての30余年間に松山城の争奪戦は繰り返されたのでした。
そして落城へ
1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐の最中、松山城は前田利家、上杉景勝、真田昌幸らの西軍7万の軍勢に包囲されます、松山城は城主上田憲定が小田原城へ入り、城主不在の状態で半数の戦力で防戦態勢をとっていました。篭城においては百姓、僧侶までも動員され難波田氏、比企氏、金子氏、山田氏ら比企地方武士団を中心におおよそ5000千の兵力で城を守っていましたが西軍に包囲を固められると即座に降伏、無血開城と成ったのです、城主の居ない城でその大半が通常では非戦闘員である百姓などを主戦力とした態勢なので十分な指揮が取れないと判断したのでしょう。
その後の松山城
無血開城後の松山城はどう成っていったのでしょうか?新編武蔵風土記稿に「松平内膳正廣天正十八年武州松山城を賜り、一萬石を領す、後慶長六年二月轉じて遠州濱松城を賜ふとあり」開城後の松山城は篭城した武士の大半は帰農又は関東に移転してきた徳川家の旗本と成り、松山城は松平正廣が一万石で松山城に入り1600年(慶長6年)関ヶ原の合戦後、正廣は浜松城に移転され松山城は廃城と成ったのです、わずか10年ほどの短い間でしたが徳川譜代藩の城としてその終演を向かえたのでした。