幻の小川素麺

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 (正保)17世紀中頃の古図面には小川町は既に町として記されていました。その小川町で如何にして素麺が名物と成ったのでしょうか?
 大麦、小麦の栽培は奈良期には高麗人によって関東一円に広まっていました、同様に麦縄と呼ばれる、うどんの原型のような物もあり小麦製の麺がこの頃には一般で食されていました。
 素麺の始まりですが室町期、南北朝の時代に書かれた「祇園執行日記」に素麺と言う言葉が文献上初めて登場します、また一説には南宋の国よりもたらされたので素麺と呼ばれるようになったとも言われています、何れにせよ室町期には素麺が日本各地で作れるようになり、何時の頃か麦の産地である比企郡でも製造され、それが徐々に定期市で売り買いされて、江戸期の頃には外食産業の発展に伴い、通行人相手に街道沿いの店で食べさせるようになっていったのです。

小川素麺とは?

 和紙の里で知られる埼玉県比企郡小川町は奈良期の頃から小川紙と呼ばれる上質の和紙を生産していました。その小川町ですが実は知る人ぞ知る、素麺の産地でもあったのです。

 「新編武蔵風土記稿」に(當所にて素麺を製せり、是を小川素麺と唱へ、此邊の名物とせり、)とあります、当時小川素麺は舌ザワリが良く名品とされていました、しかし残念な事に現在、小川町で素麺を名物として食べさせる店は一家もありません、なぜ小川素麺は消滅してしまったのでしょう?その最大の理由はもう一つの名産品、小川和紙の増産によるものです、江戸期の中頃には小川和紙の売上が小川町全体で現在の金額に換算すると4億円に達していました、此れは当時としてみれば相当の額で素麺を生産して売るよりもはるかに利率がよく、素麺を製造していた家々が徐々に紙業へと転換していったからです。
 消滅しながらもその名を残した小川素麺は中世から江戸期にかけての時代、素麺として一級の品質だったのです。

消滅したその理由