青鳥城の歴史
新編武蔵風土記稿に「往昔青鳥判官藤原恒儀と云人住せしと・・・・・天長六年九月廿日卒せし人なりと云」これによると平安初期頃には既に青鳥城は存在した事になりますが確かな裏付けなどが無い為に事実であるかは分かりません、ただ中心の主郭の形状から見て中世初期武士団の館である事が確認されるので大凡鎌倉初期には青鳥城の原型が存在していたと考えられます、その後二回の大きな改築がなされニノ郭、三ノ郭が形成されます、最終的改築は16世紀中頃で小田原北条氏によるものとされています。
築城当時の青鳥城
青鳥城の中心の郭は方形状の中世初期の典型的な武士団の館の形状である事からその築城は平安期から鎌倉初期とされ後世外周の郭が拡張されたと考えられています。
第一期改築
青鳥城には幾度か改築または拡張された形跡があります、だいだい的な改築は二回で最初の大規模な改築は長享の乱1487(長享元年)前後で須賀谷原、高見原の合戦で比企郡が激戦地と成った時代または小田原北条氏が比企郡に侵攻し始めた頃でわないかとされています、大量の兵力が必要となり主郭の外周をおためヶ池を含んでコの字状に堀、土塁で囲み兵舎、馬屋を配置して兵の駐屯地としたのでしょう。
第二期改築
ニノ郭の更に外側に家臣団の屋敷群を囲むかたちで堀、土塁が築かれその外に宿青鳥と云われる宿場の家々が軒を連ねます、小田原北条氏の比企郡統治時代に政務を行う為の城郭と成ったのです、ただ軍勢の駐留地としての役割は変わらず激化する上野国方面での武田氏、上杉謙信との合戦の為に常時数千の兵力を配置していたのでしょう。