出土品から見る当時の状況

 1404年(応永11年)室町幕府三代将軍足利義満は明国皇帝永楽帝より倭冠の取り締まりを条件に(日本国王之印)と刻まれた金印を授かり明国との勘合貿易(朝貢貿易)を認められました、それにより日本国中に渡来銭、中国製の磁器、絹織物などが大量に出回るようになりました。比企郡、秩父、児玉方面においてはそれら品々は一度、此処、行司免遺跡に集められ捌かれていたのです、又明との朝貢貿易以前からも元王朝時代の自由貿易により大陸からの物品が国内に持ち込まれ行司免遺跡でも取引されていました。この様に行司免遺跡とは武蔵国北部での西国との流通拠点でした、しかしこの行司免遺跡も元々は大蔵近辺での定期的市に過ぎなかったのでしょう、それが徐々に西国との取引が行われ、それに便乗して大陸からの珍しい品々が持ち込まれる様に成ったです。

遺跡からの出土品

渡来銭

 江戸期に入るまで日本国内では銭、(貨幣)と言う物は発行されていませんでした、奈良時代に和同開珎が唯一の貨幣でありましたが発行した数は極わずかでお金としての役割を果たしきれていませんでした。甲州金や天正大判などはその価値は一定ではなく貨幣と言うよりも金そのものに価値が有り一般の人が使う通貨とは異なったものだったのです。江戸期入る前の日本に措いて信用有る通貨を発行できるだけの力を持った政権が無かったため当時の世界通貨であった大陸からの渡来銭(宋銭、明銭)などの銅銭が大量に輸入され標準通貨として使用されました、特に勘合貿易以降、銅銭の輸入は増大して日本国内の経済状況に大きく変化をもたらします、例えば長期間の旅に出かける時など途中での宿泊、食事、必要品の購入に貨幣が使われる様に成り室町期の街道筋には宿場町が栄えていきました、又船舶輸送の発展、地産品の遠方取引、それらを一環して受け持つ元締め業者の出現など銅銭が大量に持ち込まれる事により国内の流通関係が変化していきます、そんな時代の変化の中で行司免遺跡は一地域の定期市的存在から武蔵国北部で中核的市場へと成長していったのです。

 

青磁器

 中国で生産された青磁が此処行司免遺跡で多数発見されています、これら中国での珍しい品々は勘合貿易以降の流通の変化により武蔵国内にも一般の人々にも広まっていきました。

銅鏡

 遺跡から銅鏡なども見つかっています、当時比企郡より北部の秩父地方は銅の産地だったため銅鏡などの銅製品は西国への販売目的であったかもしれません

絹織物

 絹製品は遺跡から出土したわけではありませんが室町期、明国から質のいい絹織物が大量に日本国内に持ち込まれたためおそらく此処、行司免遺跡でも売り買いされていたのではないでしょうか??また秩父地方での本格的、絹の生産は江戸期以降です。