菅谷館の遺構

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 菅谷館は嵐山渓谷で知られる都幾川の合流地点で河川沿いの小高い丘状地形に築かれた要害です、館南河川側の本郭から北へ向かってニノ郭、三ノ郭と続き三ノ郭の西に西ノ郭があります。菅谷館は鎌倉初期頃に畠山重忠の館でしたがその後二度に渡って改築がなされています、最初の改築は1488年(長享2年)関東管領山ノ内上杉氏と扇谷上杉氏の内乱長享の乱において須賀谷原で両者が対陣した際に扇谷上杉定正が菅谷館を再興したとされ、二度目の改築は小田原北条氏が比企地方を統治した頃に北条氏の兵の詰め城として拡張されました。

三ノ郭、西ノ郭

 三ノ郭と西ノ郭は小田原北条氏により増設されたと考えられます、菅谷館は兵の詰め所として利用された為、両郭内には兵舎や馬の繋ぎ場所などが在りました、イメージ画像の手前が三ノ郭で奥に見えるのが西ノ郭です。

大手口

 三ノ郭の北側で現在、城址内の県立歴史資料館駐車場入り口です、更にその外側には鎌倉街道上道が通り菅谷宿が形成されていました、又異説として大手口は西ノ郭に在り西ノ郭の空堀が鎌倉街道であったとも云われています。

正てん門

 西ノ郭と三ノ郭の境に在る虎口です、三ノ郭側の土塁が切られているは外側の敵の動きを見る為です、また正てん門内側に蔀土塁が設けられて門から直接内部を覗け無い様に成っています。

蔀土塁

 西ノ郭から三ノ郭内が見通せ無い様に成っています。

ニノ郭

 この区画は須賀谷原の戦いの際に扇谷上杉定正により増設されたと考えられます。

本郭と帯郭

 鎌倉初期、畠山重忠が館としていたのは大凡この区画でしょう、本郭南側の一段低い位置に帯郭が設けられ土塁空堀で仕切られています、更に本郭北側の虎口には出枡型の土塁が在り横矢の仕掛けと成っています。

(帯郭)

(本郭内部)

出枡型土塁

 本郭虎口に押し寄せる敵に対して横矢が掛けられる様に成っています、北条氏による改築の際に設けられたと考えられます。

都幾川

 都幾川は菅谷館の南方の守りでした、都幾川を挟んだ対岸には大蔵館と大蔵宿が存在しています、また小高い菅谷館からは鎌倉街道沿いに大蔵館、笛吹き峠を見渡す事ができます。