菅谷館の歴史

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 菅谷館は鎌倉幕府の草創の功労者畠山重忠が居住していた館でした、源頼朝の死後、北条時政、政子は畠山重忠、比企能員、和田義盛など幕府に功労のあった有力御家人達を殺害し幕府の北条家独裁体制を築きます、その後、菅谷館は放置状態に成り重忠死後263年経て管領上杉氏の内紛、長享の乱の最中1488(長享2年)須賀谷原の合戦の際に扇谷上杉定正により再建されます。

須賀原の戦い

 1486年(文明18年)扇谷上杉氏の有力重臣太田道灌は関東管領山ノ内上杉顕定の中傷で主君扇谷上杉定正により相模国粕谷にて殺害されます、管領山ノ内上杉氏と扇谷上杉氏は主家と分家の関係でしたが不仲であり太田道灌を中核に両者の関係を保っていました、その道灌を失い殺害の件で両家は互いに疑心と成り争いが始まり長享の乱が起こります、1488年(長享2年)両家は須賀原で対陣、山ノ内方に道灌の子息資康が味方し扇谷方には長尾景春が味方しました、かつて享徳の乱で敵味方であった者同氏が入り乱れて両陣に付いたのです、時に山ノ内上杉顕定は現、比企郡嵐山町平沢の平沢寺に本陣を起き、それに対抗するかたちで扇谷上杉定正は菅谷館を改築し本陣とします。
 須賀原の戦いは激戦と成り戦死者を700余人出して双方折り合いの付かないまま終結しました。

北条軍の駐屯地

 1546年(天文15年)河越夜戦で北条氏康は関東管領山ノ内上杉憲政、古河公方足利晴氏、扇谷上杉定正の8万余の連合軍を撃破した後に比企郡は北条氏の勢力圏となりました、北条氏は更にその勢力を秩父地方、上野国にも拡大します、それにより武蔵北部に軍勢を駐屯させる施設を設ける必要となり、菅谷館、青鳥城が拡張されました、菅谷館は三ノ郭、西ノ郭などが新たに設けられて兵舎、馬屋などが建てられそこに集められた兵、物資などを鎌倉街道を通して北部の前線へ送り出す為の駐屯地として利用されました。