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杉山城の歴史

 杉山城に関係する資料は特に無く、何時、だれのによって築城されたか、主だった城主がだれであったかは全く不明です、唯一新編武蔵風土記稿の中で武蔵七党の村山党金子氏をあてていますがこれは城の縄張状態から考えて大よそ築城年代は16世紀後半とされ金子氏がこの辺りの地域で力を振るっていた時期と大きくずれます、しかし元より杉山城内に金子氏館が在り、後世この地を制した小田原北条氏などによって改築された可能性はありますがこの城が現在の縄張りと成った16世紀後半に金子氏が城の主であったとは考え難いでのす、では杉山城の主はいったいだれだったのでしょうか??

 16世紀後半の比企郡では松山城が北条氏、長尾景虎、武田氏の攻防戦が繰り返され、1559年(永禄三年)の景虎の小田原進行から第二次国府台合戦後の1569年(永禄十二年)上杉謙信と北条氏政が和議を講ずるまでの10年間、松山城の城主は、はっきりしない状況でした、元々松山城は扇谷上杉氏の家臣上田氏の城でしたがその間に上田氏は本拠地を松山城から杉山城へと仮に移したとは考えられないでしょうか?北条、長尾、武田の強大な勢力が衝突し合うその10年余り杉山城を一時的に拠点としたのではないでしょうか?上田氏の本拠地とまで言うのなら杉山城と同じ嵐山町の菅谷館なども候補にあげられますが杉山城が本城とまで言わずとも上田氏の城であった事は有力な説とされています。

誰の城であったか?

小田原北条氏時代の杉山城の役割

 北条氏が比企郡に侵攻した頃に上田氏は松山衆に組み入れられ北条氏の配下と成っていました。杉山城は市ノ川を隔て鎌倉街道と反対側に位置しています、其の為、この城は街道の押さえと監視が主な役割でした、菅谷館から杉山城、高見城、そして鉢形城と鎌倉街道沿いには城が点在しています、それらの城が互いに狼煙などで連絡しあう、所謂ネットワークを組んでいたのです、何時何処から敵軍が侵攻してきても即座に連絡を取り合い防戦態勢を組むシステムの中に杉山城は組み込まれていました。