高見城の歴史
高見城は1480年(文明12年)太田道灌が長尾景春の乱の時に高見一帯を攻略し築城したと云われていますが事実かどうか定かではありません、また城主についても新編武蔵風土記稿では増田四郎重富が居城したと記されていますが他に丹党高麗氏系の青木氏配下の城であったとも伝えられ一致しません、何れにせよ鎌倉街道沿いに在る高見城付近は長享の乱とその後の小田原北条氏が比企方面で攻防を繰り返していた時代に激戦地であり城主などが幾度か入れ替わった可能性はあります。
高見原の戦い
関東管領山ノ内上杉氏と一族扇谷上杉氏は扇谷の家臣太田道灌によりその関係を保っていました、しかし1486年(文明18年)道灌が主君扇谷上杉定正に暗殺されると両者は決別し長享の乱が勃発します、1488年(長享2年)管領山ノ内上杉顕定と扇谷上杉定正は須賀谷原で激しく激突、山ノ内方には道灌の子息太田資康が付き扇谷方には古河公方足利成氏、長尾景春が味方してかつて享徳の乱に措いての敵味方が入り乱れた戦いに成ったのです、合戦は死者700人を越える激しい戦いでしたが結局扇谷上杉定正が山ノ内上杉顕定を追い返すかたちで合戦は終わりました。その同年両軍は須賀谷原から数キロ離れた高見原で再度激突します、この戦いも激しい戦いで両軍多数の死者を出して合戦は長引いていたのですが扇谷上杉定正が陣中で突然急死、扇谷方が撤退するかたちで合戦は終了しました。
小田原北条氏時代の高見城
1546年(天文15年)北条氏康は川越夜戦で管領山ノ内上杉憲政、古河公方足利晴氏、扇谷上杉朝定の連合軍を撃破すると比企方面の統治を本格化します、松山城を攻略し拠点として菅谷館、杉山城、越畑城、高谷砦、高見城などの鎌倉街道筋の各支城は街道の押さえと狼煙による連絡網で防衛ネットワークを組んでいました、1561年(永禄4年)の長尾景虎(上杉謙信)関東侵攻小田原城包囲から1564年(永禄7年)第二次国府台合戦の時期に松山城の攻防が繰り返されそれら各支城の役割も重要視されていました。