山田城、山崎城の歴史

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 山田城は忍城成田氏の家臣贄田氏並びに小高大和守親子が居住していたと伝承が有るのみ他に記録は見られません、山崎城についてはその記録は一切存在していません、しかしもし山田城が成田氏の被官の城であったとすれば成田氏が比企郡へ進出していた事に成り山田城の築城年代並びその時代背景が大凡浮かび上がってきます。

成田氏の比企郡進出?

 成田氏は1489年(延徳3年)15代当主親泰の頃に忍氏を滅ぼして忍城を築城し熊谷市内に在った成田氏館から忍城へと拠点を移します、更に熊谷市北部の別府氏、玉井氏、三ヶ尻氏などの旧一族を併合してその勢力を拡大しました、1546年(天文15年)の川越夜戦で山ノ内上杉、扇谷上杉、古河公方足利氏が小田原北条氏に大敗した後に成田氏は北条氏の被官と成っているので成田氏の比企郡への勢力拡大はその間16世紀前半頃で山田城の築城年代も大凡同時期と考えられます。

山田城、山崎城と伝鎌倉街道

 山田城と山崎城の歴史を知る上で重要な事は山田城の東面から山崎城の西面を抜ける伝鎌倉街道です、この伝鎌倉街道は鎌倉街道上道の支道で山田城の南西3kmの同滑川町に在る水房館の西方面を通り山田城、山崎城を経由して熊谷方面へとのびています、大凡上道本道の菅谷宿または大蔵宿辺りから分岐していたのでしょう、成田氏の臣が山田城に城主であったとすれば成田氏はこの街道筋を軍事的に相当重要視していたと考えられ成田氏の本拠地である熊谷方面に外敵が踏み込んでくるのを防ぐ為に山田城を築城したのではないでしょうか?また山崎城に措いても熊谷方面へ北上する軍勢が谷間の現在廃寺と成った旧寺院の寺内へ進入してくるのを恐れ自主的に街道面に防塁を築いたのではないかとは考えられないでしょうか?

伝鎌倉街道MAP

(山田城、山崎城の側面を通る伝鎌倉街道)

(山崎城付近には鎌倉街道の特徴である掘割状の
遺構が残っています。)

(街道筋は山崎城の土塁の内側にも見られます。)