柏城の歴史

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 柏城は平安末期に田面目長者と呼ばれた藤原長勝の屋敷址に享徳の大乱中に古河公方足利成氏方の大石氏が管領方の太田氏の勢力に対抗すべく築城したのがはじまりと云われています、多摩郡秋川沿いに勢力を張っていた大石氏は15世紀末期には柳瀬川沿いに滝の城、柏城を築きその勢力範囲を入間郡、新座郡、高麗郡にまで伸ばしていったのです。

小田原北条氏の軍門へ

 1524年(大永4年)、太田資高は北条氏綱に江戸城を明け渡します、それにより武蔵国南部で小田原北条氏は勢力を伸ばし大石氏、三田氏など山ノ内、扇谷上杉氏配下の旧勢力は危機にさらされます、丁度同じ時期、大永4年に柏城主大石信濃守により北条氏に対抗する為に柏城が改築され西の郭、大外堀が形成されました、しかしそれから14年後の1538年(天文7年)大石氏の本城滝山城の城主大石定久は国府台の合戦で北条氏綱が勝利したのを期に氏綱に降伏し柏城も事実上北条氏の持ち城となりました。さて柏城主大石信濃守ですが不可解な事に大石氏の系図には載ってなく定久との関係も定かではありません、定久の弟であったと説はありますがはっきりしていません、ただ信濃守は北条氏へ降伏後も柏城主を継続していったのです。

9万余の敵軍を目前に

 1561年(永禄4年)関東管領山ノ内憲政より関東管領職の引継ぎを受けた上杉輝虎(謙信)は小田原北条氏討伐の為、上州、関東の武士団9万余の軍勢を集めて関東へと侵攻しました、輝虎の大軍は上野国、武蔵国の北条氏の支城を次々と落城させていよいよ柏城へと迫ります、一方城内では大石信濃守が矢倉より敵の大軍を確認しまともに戦っては勝ち目は無いと覚り城外に出て魚鱗の隊形をとって敵陣へ割って入り敵大将の首を取る究極の戦法を提案しました。

 当時、柳瀬川を挟んだ高台には9万を越える上杉軍が雲霞の如く集結していた。

 籠城方は城の木戸を開き城を出て即座に魚鱗の隊形をかためて敵陣中央へ切り込み勇猛果敢に戦いましたが多勢に無勢の為にすぐに形勢不利と成り城内へ退却しました。輝虎は籠城軍が退却したのを見計らい功城態勢をとります、城の南の大手側の平坦地より攻め懸けると見せて西側の丘状地帯に兵を潜めて城内に乱入させ混乱状態と成ったところへ大手から大軍で攻め込み一気に落城させたのです、籠城軍は全員討ち死にし大石信濃守は湯殿で自害するところで捕えられて殺害されました、この間わずか半日足らずで落城したそうです。