川越城の歴史

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 はじめに川越城が築城された理由ですが事の発端は鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉氏と関東の覇権を争った亨徳の乱(享徳三年、1454年)にあります、鎌倉を追われた成氏は下総の古河に根拠地を置きました、それに対抗すべく上杉方の太田道真、資長(道灌)親子らは古河の成氏と相模、武蔵の成氏方の武士団との連絡を絶つため深谷城、岩槻城、江戸城を築きその中心地点に川越城を築城(1457年、長禄元年)したのです。その後、天文六年、1537年上杉朝定の守る川越城は北条氏綱に攻撃され落城し小田原北条氏の城と成りました、

 川越夜戦(小田原北条記より)
 天文十四年、1545年八月、今川義元が三河・遠江・駿河三か国の軍勢を率いて、駿州の長久保城(静岡県駿東郡長泉町)を攻撃しているという情報がもたらされた。氏康はこれを聞いて、「領国の城々に、私はつねに大兵力を駐屯させて、兵糧・弾薬など備蓄しておいたので、それほど驚くことはない」と判断した。しかし援軍を派遣しようと協議していたときに、また両上杉が東国八か国の軍勢を率い合わせてその勢力八万余騎で、同年九月二十六日に川越(埼玉県川越市砂久保)へ向け出撃したのである。こうなった次第というのは、義元の領国の駿州長久保城は、以前氏綱が攻め落とし、武州川越城も、上杉朝定の居城であったのを、これも以前氏綱が奪取して以降、その子氏康が引き継ぎ、守護となり威力を関八州に示していたものである。しかし今回、管領の上杉兵部大輔憲政(憲房の子)と、今川行部大輔義元が示し合わせて、長久保攻略の後詰めとして、川越城をせんめおとし、以前の恥を晴らそうと思ったのである。そこで上杉憲政は砂窪に旗を立て陣営を設置した。先発隊により川越城を稲麻竹葦のように幾重にも取り巻いた。
 いったいこの川越城は、扇谷上杉の重臣がしらの太田道真(資清、道灌の父)が初めて築いたものである。この場所こそ、入間郡三吉野の里である。昔、在五中将(業平)が東下りをし、「三吉野の田面の雁」(三吉野の田の面に降り立っている雁もー「伊勢物語」十段・「古今六帖」六などに入る)と詠んだのもここである。この城には、北条左衛門大夫綱成(福島正成の子)が立てこもっていた。この人は元来東国に並ぶもののない猛将で、数度の合戦で先駆けをし、強い敵を破り堅い守りを砕き危険な目に会っても動ぜず、氏康のまたとない忠臣である。初めは九島左衛門といったが、北条の姓をいただいてから、北条左衛門大夫綱成と姓名を改め、のちに北条上総守と申し上げた。この人の旗は朽葉(薄い藍色がかった黄)の練貫(糸を経、練糸を緯として織った絹)で八幡の二字が書いてあった、それで当時の人は黄八幡左衛門と呼んだのである。敵がこの旗を見て恐れないということはなかった。このように大剛の武士であるため、伊豆と相模のわずかに三千余騎の軍勢で上杉八万騎を引き受けて、昼夜となく戦った。その勢いは、暴水がみなぎりあふれて平地がたちまち河川と化し、大山が崩れて海に埋もれても、少しも動じることはないよううに思えた。
 当時の古河の公方晴氏卿(高基の子)は、氏康の妹婿であった。そして上杉憲政は公方の旧臣である。このため双方が傷つかないようにとりなしがあった。そうしたときに、上杉憲政は使者を公方の所に遣わして、「今回私と力を合わせて川越にご出動され、氏康をご成敗されるならば、公方様を鎌倉へお迎え申し上げ、敬い申し上げましょう」ということを申し上げた。氏康も代官を通じて、「管領がどのように言おうとも、いまはなんの罪によって、当家をご成敗されようとするのでしょうか。公方様はたとえどのようなことがあっても、ご出動なさってはなりません。今度の合戦で、味方が勝っても敵が勝っても、皆公方様のご指図をうけている家来であります。ですから一方への肩入れは筋が通りません」と申し上げた。それで晴氏卿はこの氏康の意見を聞き入れて、どちらにも加勢しないことに決まった氏康はたいへん喜び、「すぐさま救援の軍勢を出動させ、上杉を追い落とせ」と命じ、あれこれ相談した。
 そのころ、上杉方の難波田弾正(忠行)・小野因幡守などが、古河殿の所にうかがい、「今回、氏康の申し入れにより、管領にお力添えなさらないとうかがいました。ほんとうであるならば、実に困ったことだと思います。そもそも公方と管領は、尊氏将軍のときから以降、代々君臣としての関係を保ち、主君に忠義を尽くし、臣下に恩恵を与える交わりは、水と魚のようについに中絶することがありませんでした。しかし、長春院殿(持氏)の御代に、君臣の間はおもわしくなくなり、関東の乱れとなりました。どなたがこの地方を平穏無事にまとめられるのでしょうか。このたびたまたま君臣が合体して、管領が関東を平定し、公方様の御治世を迎えるために、すでに兵をあげたのですから、加勢してご出動されるのが当然だとおもいます。氏康の縁者であるのでふびんに思われるのは当然ですが、早雲からはや三代、かすめ取った伊豆、相模、武蔵はいずれもみなご領国の中です。このようにつぎつぎと押領し、自らの威勢がますままに、公方と管領をも滅ぼして、関東をわが手で治めようと計画しているのです。今ここで氏康をご成敗され、御代を安定なさるのがよいことです」としきりに言った。そこで公方春氏卿はご出馬をすぐに納得された。天文十四年(1545年)十月二十七日、公方が川越へ出動され、旗を立て軍を起こされたので、関東および領国の軍が勢馳せ参じ、北条左衛門らの守る川越城を包囲し、兵糧攻めにかかったそうこうしてるうちに、ろう城の武士たちは、兵糧の輸送路を断たれ、はやくも飢えようとしていた。「どうせ死んでいくならば、切り込んで、はなやかに討ち死にしよう」と話になった。
 そのころ氏康は、「左衛門大夫(綱成)を攻めおとされてはかなわない。急いで敵の背後を突く軍勢を繰り出し、上杉を追い散らそう。だが敵と味方の兵力の差を考えると、まるで九牛の一毛(取るに足りない小勢)である。あたりまえに戦っては勝てるわけがない。謀略をめぐらそう。しかしそれまで待ち切れず、ろう城している武士たちが、たまりかねて切って出たならばどうにもならない。あくまでも城を死守して、援軍を待つように、と城中の人々に知らせたと思うが、連絡路が確保されていないので不可能であろる。どのようにしたらよいだろうか」と評議してるとき、左衛門の弟で、九島弁千代といい、今年十七歳になった、容姿・人がらともに秀でた氏康秘蔵の小姓が進みでた。このことを城中に知らさねば実に一大事です。だがこの包囲網ではどのような人でもためらわずには通れません。私が敵をあざむいて城中に駆け込み、事態を詳細に知らせる決心です。ほかの人がいったならば、もし敵に捕らえられたとき、自白してしまうことも考えられません。ぜひにも、お許しをいただけたなら、知らせにいきます」と申し出た。氏康はこれを聞き、「腕のすく発言であり殊勝だ。それならお前が出かけてゆき、こと細かにこのことを話せ」と言った。
 弁千代はかしこまってお受けし、氏康へ最後の別れを述べ、ただ一騎敵中をしずしずと通って大手門の前に馬を進めた。城中でも「変だ。あれは敵か味方か」とうかがっているとき、相模の国の住人の木村兵蔵が、よく見知っていて、「たったいまこちらへ駆けつけるのは、弁千代殿であるぞ。迎えに駆けつけ城中に引き入れろ」といって十騎ばかりがうって出た。弁千代も左右のあぶみをあおり、馬を疾走させて城中へ駆け込み、虎口の難を脱した。それで大将氏康の御もくろみを詳しく語ったので、左衛門大夫をはじめとして、伊豆・相模の武士たちは大喜びをし、衰えた勢いを一変させる思いにひたった。
 ちゅどそのとき氏康は、長久保(駿河)と三浦(相模)に五百騎と三百騎に軍卒を分けて配置していた。そのためわずかに八千余騎の手勢で、武蔵の砂窪に出撃し敵陣を見渡すと、公方と管領の軍卒が雲霞のように広がって、山川万里に満ちてみちていた。しかし氏康の軍勢はみな、「大敵を見て恐れない小敵を侮らない」という北条家初代からの武門のほまれを、身にしみこませた武士であるから、大軍に動じたりはしなかった。氏康は静かに手分けされ、計略を用いて公方にに使者を派遣し、「川越城にろう城した武士たちに、もはや飢えがしのび寄っています。ですからせめて命だけでも助けていただけるならば、城と領地を公方にさし上げます」と再三泣きついた。しかし、春氏は「貴公が来なくとも、明日は城を攻め落とすだろう」と答えた。その上「伊豆・相模の軍卒が多数ろう城しているので、これらの者すべてを殺したならば、氏康は小田原にも留まっていられまい。一人でも助けたならば、後のわざわいとなるだろう。ことごとく討ち取って、氏康をも成敗してしまおう」と言ってる由が伝わってきた。
 そこで氏康はまた一計を案じ、常陸の国の小田政治と菅谷壱岐守という者をたよって、「このように包囲されてはなすすべもありません。貴殿におまかせしますのでろう城している左衛門大夫ならびに軍卒を助けてください。このことが聞きとどけられたあかつきには、川越城を貴殿にあけわたしましょう。その上で憲政と和睦して軍をひきあげます」とさまざまに訴えた。菅谷はこのことを上杉方に披露した。上杉勢はこれを聞き、「案の定だ。氏康の軍卒は、どれほど強いことがあろう」と言って、氏康からの申し入れには耳の貸さなかった。かえって嘲笑して「一気に川越を攻撃しよう」と言い、作戦会議は雑なものであった。
 氏康は敵をすっかりだましおおし、天文十五年(1546年)四月二十日「上杉に夜討ちをかけよう」と言って、まず笠原越前守(信為)を敵陣に忍び込ませて、敵のようすを探らせたところ、上杉の軍卒は陣中で、小田原勢が攻撃するとは予想もせず、「氏康はきっと明日か明後日には小田原へ逃げ出すだろう。川越城を攻略した後で、小田原を攻めよう」と言ったり、また分別のある者たちは、氏康の武勇を恐れ、「いやいや侮るのは危険だ」と主張している者もいたとか言うことであった。総じてあれこれと言っているがかえって合戦を思い描いている者は少ないという。
 「さあころ合いがいいぞ、かかれ」といって一同出撃した。時は四月二十日の宵を過ぎたころであるから、月もようやく出たが、曇っていてはっきりしない空模様である。小田原勢はわざと松明を持たず、紙を切ってよろいの上にかけ、肩衣(袖のない服)のようにして、合言葉を決め、だれ重い旗や馬よろいをつけずに、「首を取ってはならない。そのまま捨ててしまうこと」と約束し、「前にいるかと思えば後ろへ回り、四方に動いて、一か所に片寄ってはならない」と命令された。
 午後十二時ごろに馬から降りて、砂窪に斬り込んだ。上杉の軍勢は「敵が攻撃してこよう」とは予想もせず油断していたので、急にあわてて守りについた。小田原勢は四方に駆け込み、前後から切り込んだ。氏康は大道寺をはじめとして、井浪・荒川・諏訪・橋本を卒い、やりを敵陣にたて続けに投げ入れ、十文字に駆け破り、敵をぐるぐると追い回した。大刀のつば音、矢叫びの音を天地を響かせた。前後に入り乱れ、左右に散開して攻撃し、ほどなく上杉憲政の本陣を攻撃した。敵は小野播州・本間江州・倉賀三河守などがあらかた討ち死にし、難波田弾正は東明寺(川越城の北西に所在)方面の古井戸にはまり溺死した。上杉扇谷朝定も討たれて死んだ。小田原勢は勝ちに乗じて、敵を追いかけ追っかけ討ち取った。そうしたとき、北条左衛門大夫が率いる軍勢が城から全員打って出て、切り込み、公方春氏の軍勢を追い散らした。第一陣が破れると残りの者たちは浮き足だち公方が頼み切っていた上杉勢はすべて追い散らされた。どうして少しでも楢予することがあろうか。敵はただの一度も反撃しないで崩壊しちりじりに落ちて行った。

 天正18年(1590年)川越城は豊臣秀吉による小田原征伐の際に前田利家、上杉景勝の軍勢に攻められ落城してしまいました。