毛呂氏館の歴史

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 山ノ内上杉氏の侵攻に対し毛呂氏が篭城した竜谷山城です、当時鎌倉街道沿いの毛呂郷が北条氏に占領される事は山ノ内方にとって大きな痛手でした。

竜谷山城(毛呂要害)

 関東管領山ノ内上杉氏と扇谷上杉が争った長享の乱の最中1504年(永正4年)両者は立河原にて激しく衝突します、当時毛呂氏は管領山ノ内上杉氏の被官と成っていて山ノ内方として参戦していました、合戦の激しさは夥しい死傷者を出しそれを見かねた毛呂顕繁はこの合戦で戦死した者の供養の為に48個もの念仏の鐘をつくったとされ現在その内の一つが残っています。
 1524年(大永4年)北条氏綱は扇谷上杉朝興の江戸城を占領しました、この期に毛呂太郎は山ノ内上杉氏を離れ北条方へ属します、それに対して山ノ内上杉憲房は主要幹線道の鎌倉街道を確保する為に毛呂郷に侵攻しました、毛呂氏は竜谷山城(毛呂要害)に篭城して防戦します、そこへ北条氏綱が援軍に駆けつけ両者は和談したとされています。

乱世、毛呂氏の活躍

 1589年(天正17年)豊臣秀吉は北条氏直に宣戦布告状を突き付けました、1590年(天正18年)秀吉が小田原城を包囲すると毛呂氏のは城代横地監物の守る八王子城へ入ります、鉢形城、武州松山城、岩槻城、川越城を落城させた上杉景勝、前田利家、真田昌幸の西国方の連合軍は八王子城に猛攻をかけます、其れに対して八王子城は2000余の籠兵で必死の抵抗をしましたがほぼ全員討ち死にし落城しました、時に毛呂氏は党首毛呂顕季を筆頭に毛呂顕綱、土佐守義可、義忠と主要な者達が八王子城で討ち死にし毛呂郷在地領主としての役割を終演したのです、その後毛呂氏は帰農する者、徳川家の旗本に成る者、川越藩に仕える者と一族は分かれていったのでした。

 毛呂氏が毛呂郷に在住したのは平安期後半です、毛呂氏は藤原氏を祖として毛呂郷在住後に武蔵七党の丹党と婚姻関係を結びました、毛呂氏館が築かれたのは大凡この時期と考えられます、又毛呂氏の館は小田谷の毛呂氏館以外に岩井地区の山根城、竜ノ入地区の竜谷山城と現毛呂山町内に幾つか点在しています。

毛呂氏八王子城篭城