難波田城の歴史

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 難波田城は武蔵七党の村山党金子氏の流れを組む難波田氏の館でした、難波田氏が何時の頃から富士見市南畑の地に居住したかは定かではありませんが太平記の中に難波田氏の名が見える事から室町初期には既にこの地を本拠地としていた事がうかがわれます。

観応の擾乱の頃の難波田氏

 足利尊氏と弟直義、南朝の連合軍が争った観応の擾乱の時代、太平記に直義軍から尊氏軍へと転じた高麗経澄が埼玉県白河町で挙兵して府中へ進軍中に難波田城より数キロ西の羽倉で難波田九朗三朗と戦い此れを破り府中を占拠したとされ、更に高麗経澄の軍忠状にも同じ事が書き留められ、この時代には難波田氏は直義党であった事が窺われます。

松山城の攻防戦から川越夜戦まで

 時代を経て北条氏綱が武蔵国に進出し川越城を占拠した頃、難波田氏は扇谷上杉氏の重臣と成っていました。1537年(天文6年)の7月、扇谷上杉朝定と難波田弾正善銀は残党を集めて川越城を撤回しようとしますが失敗、松山城へと敗走します。氏綱は松山城を包囲、難波田善銀は北条軍を城中へ引き入れ取って返そうとした時に北条方から山中主膳なる武将が善銀に駆け寄り(あしからじ よかれとてこそ たたかはめ 何か難波の うらくつれ行く)と一首を歌ったのに対して善銀は(君をゝきて あたし心を 我もたば末の松山波もこえなん)と籠城の決意を歌って返した事は有名です。
 1546(天文15年)山ノ内上杉憲政、古河公方足利晴氏、扇谷上杉朝定による川越城総撤回作戦が行われます、それに対して北条氏康は連合軍に夜襲をかけ大勝利を収めるのです、この戦いで上杉朝定、難波田善銀は討ち死にし、事実上扇谷上杉氏は滅びて難波田氏は後に北条氏に降伏、松山衆に組み込まれ、難波田城は北条氏の支城として上田周防守が城主と成ったのです。

修験道場となる

 1590年(天正18年)の小田原落城後に難波田城は廃城と成り、江戸期の頃には難波田城址に十玉院と言われる修験寺院が置かれて修験道場となります、現在も難波田城址公園内には修験道場時代の墓地が残っています、明治期に入ると修験道は禁止されて道場は取り潰され、名目上、難波田城址は原野と成りました。