大堀山城の歴史
1487年(長享元年)太田道灌謀殺を切っ掛けとして管領山ノ内上杉氏、一族扇谷上杉氏は分裂し長享の乱が起こり両軍は比企郡菅谷原と高見原で激しく激突します、当時下広谷の旧街道筋は比企郡大蔵辺りで上道と合流していたのでしょう、扇谷上杉氏は山ノ内方が街道筋を南下して扇谷方の本拠地川越に押し寄せるのを防ぐ為に大堀山城の最終的改築強化を行ったと考えられ更に他の三城も同時期に築城したのでわないでしょうか?またこの四城の幾つかの城は逆に山ノ内方が川越攻めの為に築城したとも考えられます、異説に四城は一つの城であったとも云われていますが四城を一つにまとめると川越城を越える東西1.5mにも及ぶ巨大な城郭と成りそれ程の城郭が伝承すら存在しないのは不自然であり尚且つ大堀山城と他の三城とは縄張状況が異なっているので一城説は考えにくのでわないでしょか?
以上、私的見解ですがどう思われますか?
さてここで疑問と成るのが当初この館の主(在地武士)とは誰であったのか?最も妥当な考えで河越氏が上げられます、此処下広谷地区は室町期初め秩父党河越氏の勢力圏でありました、また大堀山城より南3kmに河越氏館が在り更に県道(旧街道筋)を5km北上すると河越氏の有力氏族高坂氏の館に向かい大堀山城は河越氏館と高坂氏館の中間辺りに位地します、この点から考えて改築以前の大堀山城は河越氏族が下広谷開拓の拠点として築いた館(中心の郭の区画)であり後に河越氏滅亡後に河越館に入った扇谷上杉氏により回収されたのでわないでしょうか?
扇谷上杉氏による大改築
謎の四城
風土記稿で古跡三ヶ所とありますが下広谷地区には大堀山城以外に要害が3ヶ所存在します、大堀山城から東へ200mの位地に広谷宮前城、西150mに広谷北城、更に広谷北城から南西400mの位地に宮廻館があります、これら要害は大堀山城同様に特に資料、伝承等は残っていません、でわこの四城はいったい何を意味しているのでしょう。
此処大堀山城の歴史ですが「新編武蔵風土記の稿」に(古跡三ヶ所あり)とあるのみで伝承または資料などは特にありません、従来この城は南方向3kmに河越氏館が存在する為に1368年(正平23年)の平一揆の乱で河越氏が建てた城とされていましたが近年の研究で15世紀から16世紀初頭の陶器、古銭等が出土した事と大堀山城の西の県道が同時期に川越から鎌倉街道上道と合流して鉢形、五十子と結ぶ旧街道筋であった事から享徳の乱から長享の乱にかけて当時川越城に在城していた扇谷上杉氏の城であったと考えられています。
遺構のページで述べた様に大堀山城は在地武士の館であった中心の主郭を二重、三重の堀と土塁で囲み拡張した縄張と成っています。
東西横一線に連なる四城です、大堀山城と広谷北城の間を通る県道が川越から鎌倉街道上道と合流し鉢形、五十子方面に向かう旧街道です、これら四城はこの街道筋を押さえの城であったのでしょう。
でわここでもう一度大堀山城の縄張を見てみましょう。