滝ノ城の歴史

入間方面へ
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 1454年(享徳3年)鎌倉公方足利成氏が関東管領山ノ内上杉憲忠を殺害し享徳の大乱が勃発します、管領方の武蔵守護代大石氏は太田道灌が江戸城を築城した次年の1458年(長禄2年)自主防衛とそれまで形勢不利であった管領方の戦況を転換する為に本拠地を武蔵二ノ宮から高槻城に移転しそれと同時に入間、新座方面への領土拡張をはかりました、滝ノ城は大凡この頃大石氏の入間、新座進出にともない築城されたと考えられています。

大石氏の柳瀬川近隣開拓

 享徳の戦乱の最中なぜ大石氏は入間、新座方面へ進出をしたのでしょうか?それは享徳の大乱により空白と成った入間南部、新座郡を領有し勢力を拡大して太田道灌と共に公方方と対抗する為であったのでしょう、大石氏はまず旧山口領の久米川へ進出しそこから柳瀬川沿いに入間郡安松郷、引又(現志木市柏町)へと領土を広げ安松郷の本郷村に滝ノ城、引又に柏城を築城します、当時の柳瀬川は水量も多くその流れは所沢から入間川(現荒川)へとつながり灌漑用水の確保と物資の輸送に適していた事からか大石氏は柳瀬川沿いに進出したのでしょう。

清戸三番衆

 1538年(天文7年)小田原北条氏が第一次国府台の合戦で勝利したのを期に大石定久は北条氏の軍門へと降ります、更に21年後の1559年(永禄2年)北条氏康は三男氏照を定久に養子入れして家督を継がせ実質上大石氏は北条家の傘下となり滝ノ城は北条氏照の支城となったのです、1564年(永禄7年)反北条氏の里見、太田氏との決戦第二次国府台の合戦に勝利した北条氏は下総進出を本格化します、北条氏照は1561年(永禄4年)に上杉謙信に属して北条氏に敵対した三田綱秀を滅ぼし組み入れたその旧家臣41名に対して清戸三番衆を組織させ清戸番所の警備を命じています、滝ノ城は氏照の本拠地八王子の滝山城と最前線の栗橋との中間で重要な中継地と考えたからでしょう、清戸番所は滝ノ城から見て柳瀬川対岸の清戸宿(現下宿)に在り室町期にはその宿場に船着場も存在し交通の要所でありました。