山吹の里
東武越生線、越生駅から県道30号線へ向かって10分程歩くと山吹の里公園が在り、4月中頃から5月下旬にかけて3000本の山吹が咲き乱れています。
越生町、山吹の里公園
この話に出てくる山吹の里とは何処であったのかはっきりとした場所についてはわかりません、東京都、高田の馬場であったとも言われ、此処、越生町の山吹の里公園付近もその有力候補に上げられています。
15世紀後半の話です、太田道灌(太田資長)が鷹狩りの途中で雨に降られたので蓑を借りようと近くの貧しい農家を訪ねたところ少女が出てきて山吹の枝を差し出しました、道灌はその意味がよくわからず家臣に尋ねると(醍醐天皇の子息、兼明親王が蓑を借りに来た者に「七重八重花は咲けども山吹のみの一つだになきぞ悲しき」と歌を詠んで山吹の枝を差し出したのにちなんで蓑と実の一つ無いをかけあわせて蓑一つ無い程の貧しい家です、と伝えたかったのでしょう)と答えた、道灌は自らの学の無さを恥じてその後、歌道を学び一流の歌人と成ったと云われています。
(埼玉県越生町山吹の里公園)
寺内には道灌の墓も在ります。
寺内に在る太田道灌像
永享年間(1429年〜1441年)頃に将軍足利義教の命で上杉持朝が足利尊氏以来の先祖の冥福と相次ぐ戦乱で命を落とした人の霊をを弔うため創設しました、後に戦で消失して太田道真、道灌親子により再建され当初道灌の父、太田道真が住職を勤めています。
越生町龍ヶ谷には太田道真、道灌親子により再建された龍穏寺が在ります、埼玉県越生町は太田氏の所領で縁の土地です。
龍穏寺
山吹は実がならない無い事から蓑が無いの言葉とかけあわせたのでしょう。
公園内に咲く山吹