赤塚城の歴史

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 関東管領山ノ内上杉氏と古河公方(古河将軍職)足利成氏との争い享徳の乱は関東を二分する戦いへと発展しました。代々下総の有力武士団で下総守護職である千葉氏胤直も公方方に付くか管領方に付くか選択を余儀なくされます、胤直の近親の原越後守胤房がしきりに公方方に付く様に胤直にすすめましたが胤直は此れを退け管領方に付く事を決意します、原越後守は公方成氏と繋がりが有り胤直の決断に反感を抱き胤直の親族、千葉馬加陸奥守(康胤)を立て挙兵し更に公方成氏からの加勢を得て胤直の本拠千葉猪鼻城に押し寄せました、胤直、胤宣の親子と胤直の舎弟胤賢は突然の攻撃に対して防戦しきれず多胡城と島城に別れて籠城しますが両城共落城し胤直、胤宣、胤賢は自害、千葉宗家は滅び、変わって原氏を背景とした馬加千葉氏が家督を継ぐ事に成るのです。

千葉宗家の滅亡

 赤塚城を築いたのは豊島氏系、赤塚氏と言われていますが此れは定かではなく議論の課題と成っています、何れにせよ1456年(享徳5年)本領下総国を追われた千葉宗家が入場した時には赤塚城が存在していたのは確かな事です。

 胤直の舎弟胤賢には実胤、自胤の二人の子息がいました、実胤、自胤は上杉氏家臣太田道灌を頼り武蔵国に逃れてきます、道灌は兄実胤に市川の石浜城を与え、弟自胤には赤塚城を与えて此処に武蔵赤塚千葉氏が誕生したのです、実胤、自胤は下総撤回をはかりましたが成功しませんでした、しかし兄弟は道灌の有力武将として活躍し1477年(文明9年)享徳の乱の命運を定める道灌、豊島氏との戦い江古田、沼袋の合戦では千葉自胤の名が見えます。

武蔵赤塚千葉氏の誕生

 

 小田原北条氏が武蔵国南部へ勢力を延ばし始め1524年(大永4年)北条氏綱が扇谷上杉朝興と太田康資の守る江戸城を占領すと赤塚千葉氏は北条氏に降伏し傘下へと降ります、この頃には赤塚千葉氏は現板橋区志村3丁目の志村城も支配し大凡板橋区から北区西部にかけて荒川水域低地帯をほぼ領有していました、この地域では先住の豊島氏の時代から水田の開拓が行われ千葉氏へと受け継がれていったのです、北条氏傘下と成った後も赤塚千葉氏はこの辺りを領有し1590年(天正18年)小田原城が落城するに至るまで千葉氏の知行地でした。

小田原北条氏の傘下で

志村城址(志村城涌水池)

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 志村城も赤塚城と同じく荒川氾濫域の湿地帯と段丘を利用して築かれた城で城北部の低地には涌水池が存在していました。

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