小机城の歴史

武蔵南部へ
武州の城topへ

 太田道灌が攻めあぐんだ城で知られる小机城は鎌倉からの最前線防衛拠点鶴見川沿いに築かれています、鎌倉大草紙に1416年(応永23年)上杉禅秀の乱で足利持仲、上杉憲顕らが小机に布陣したとあり、鎌倉街道中道と鶴見川の交差する小机は戦略上、重要地点だったのです。

長尾景春の乱の小机城

 小机城が最初に歴史上に確認されるのが1478年(文明10年)に記載された太田道灌状に反乱軍に加わった豊島秦径が小机城に逃げ籠もったとあります。平塚城を道灌に攻められ一族滅亡させられた豊島氏の党主泰径が乱の首謀者、長尾景春の家臣、城代成田三河守が守る小机城に逃げ込んだのですが、その理由は小机城付近は長尾氏の勢力圏で鶴見川沿いを防衛拠点として相模国鎌倉を押さえ、関東北部の古河公方足利成氏方の諸氏に向かい合う上杉方を背後から攻撃をかける態勢を取っていたので泰径はそれに加わり今一度再起を図ったのです。その態勢を崩すために道灌は小机城に攻め係りますがなかなか落城させる事ができずに2ヶ月半の日数を費やして要約と攻め落とす事ができたそうです。時に道灌は長期戦と成る合戦で「小机は まず手習いの初めにて いろはにほへとちりちりとなる」と歌いあげ味方の士気を高めたと言われています。

北条氏綱の武蔵侵攻拠点

 1516年(永正13年)三浦氏を滅ぼした伊勢長氏(北条早雲)は武蔵国進出を本格化しますが1519年(永正16年)長氏死去、継いで氏綱が北条姓を名乗り武蔵制圧に乗り出します、小机城を占拠した氏綱は笠原信為を城代に置き江戸城に対する前線の要害としたのです、この時期、武蔵南部の豪族達も家臣団に組み込まれ成田三河守の家臣、旧江戸氏の諸氏も当然その中いたと思われるのですが、それらがどの様な流れで北条の家臣に組み込まれたのか詳細はわかりません、ただし、それら諸氏が素直に北条の門下へ下ったとは少々考えにくいのですが? いずれにせよ小机城を占拠する事で後に小田原衆所領役帳に見る小机衆と言う軍団組織は結成されたのでした。

平穏な時代

 前線拠点が小机城から江戸城へ更に川越城へと移るに従って小机城の戦略上の役割は次第に無くなり北条氏の在地支配の為の城と成りました、城下に家臣団の家屋敷が建ち並び街道筋には宿が軒を連ね、定期市が開かれてさながら戦国乱世が終演したかの様でした、1590年(天正18年)の小田原の役でも小机城は戦場には成らずに小田原城開城後に無血開城したのです。