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分倍河原の古戦場

(分倍河原駅前の新田義貞像)

 鎌倉幕府倒幕の為に後醍醐天皇、楠木正成、護良親王が起こした元弘の変の最中、1333年(元弘3年)足利高氏は幕府軍から倒幕軍へと寝返り六波羅探題を攻略します、それに呼応するように新田義貞は新田氏の所領、上野国新田庄の生品神社で倒幕軍として挙兵しました、新田軍は小手指、久米川おいて幕府軍を撃破しますが分倍河原で10万の援軍を得た幕府軍に敗退し武蔵国分寺に火を掛けて堀兼(埼玉県狭山市)まで後退します、そこへ三浦義勝や江戸、豊島、河越、葛西ら武蔵勢が新田軍へ加わり関戸にて再度幕府軍と対戦し幕府軍を撃破して鎌倉へと向かいました。

分倍河原の古戦場の碑と分倍河原三千人塚

群馬県太田市の総持寺(新田氏館址)

分倍河原の合戦は激戦で相当の死傷者を出したと伝えられています。

多摩川、関戸

 多摩川は幕府の拠点、鎌倉にとっての最終、最大の防衛線でした。

 写真手前の川岸は新田軍が押し寄せた府中市側でその対岸は幕府軍が陣を構えた稲城市です。