檜原城の歴史
平安末期、武州日野に武蔵国司の日奉氏と云う豪族がいました、日奉氏は武蔵七党に属し西党と呼ばれ平山氏、田村氏、立川氏、由比氏、由木氏に分流して秋川流域に点在していったのです、その中の平山氏に平山季重と云う人物がいました、季重は武勇に優れ源頼朝の平家討伐の際の一ノ谷の合戦や奥州征伐で軍功をあげて頼朝の信認を受けたのです、その季重の子孫達が檜原に移り住み在地領主と成ったのでした。
武蔵、南一揆
室町期に入ると一つの党による統率体制は崩壊します、南北朝期には同じ党内で一族同士が敵味方に別れて争う事が頻繁に起きる様に成ったのです、そこで各地に一揆と呼ばれる軍事同盟が組織され秋川流域では南一揆と云われる旧西党を中心とした一揆衆が結成されました、平山氏はその南一揆の中心的存在であったのです、南一揆の勢力は関東一円に組織力を広めた平一揆程の強大軍事組織ではありませでしたがその活躍は目ざましく太平記などによく登場します、後に享徳の乱(関東公方と関東管領の争い)で南一揆は関東管領山ノ内上杉氏の重臣大石氏を目代(在地武士のまとめ役)としてその指揮下に組こまれました。
小田原北条氏の傘下へ
1538年(天文7年)目代大石定久は小田原北条氏に降伏し軍門に降りそれまで南一揆を構成していた平山氏、小宮氏、二宮氏なども続々と北条氏に降ります、北条氏体制下では一揆の様な在地武士による自主的な軍事同盟を組む必要性無くなり自ずと南一揆は自然消滅しました。
秋川防衛ライン
さて檜原城についてですが1569年(永禄12年)武田信玄と北条氏康の結んだ甲相同盟は信玄が今川領の駿河へ乱入した事により崩壊します、この時点で武蔵南部、多摩方面は武田軍の侵略を受ける可能性が高まってきました、そこで北条氏康の二男氏照は本拠地滝山城を起点として秋川河川沿いに高槻城、戸吹城、大網城、戸倉城、檜原城を築城ないし拡張し防衛ラインを引きます、それら各支城の守りは旧南一揆のメンバーが配置され檜原城においては平山氏がその守備にあたりました、檜原城は甲斐の国に最も近く「境目の城」と呼ばれ西多摩方面の最重要拠点でしたが実際、武田勢は秋川沿いからは侵攻せず、不意を突いて直接、滝山城へ小仏峠方面と上野から武蔵に入り拝島方面との二方向から攻撃かけてきました、その為、滝山城は落城寸前まで追い詰められましたが北条軍の必死の防衛で守りぬいたのです。
1590年(天正18年)小田原の役の時に檜原城は平山伊賀守が守っていましたが本城の八王子城と共に落城し伊賀守と子息新左衛門は千足と云う所で自害したと新編武蔵風土記稿に記されています。