片倉城の歴史
平安期に東京都八王子市、町田市周辺は武蔵七党横山党の勢力圏でした、1213年(建保元年)和田義盛が鎌倉幕府と対立し和田義盛の乱が勃発すると横山時兼は義盛に属し討ち死にし横山党勢力はこの地において衰退していきました、乱後幕府は大江広元に旧横山荘を与え横山党に代わり大江氏が八王子、町田周辺を領有する所と成ります、この大江広元の次男時広を祖とする長井氏は室町期に扇谷上杉氏に仕え関東の名族に数えられていました、また大江師親なる人物は湊川の合戦で足利尊氏に属し更に今川氏に従い九州の南朝方と戦っています、大江師親は広元の四男季光を祖とする毛利氏の第六代目で名を元春と改名し毛利元春と称して安芸国に在住し後に中国地方を制圧した毛利氏の祖となります、さて新編武蔵風土記稿には片倉城に大江師親が応永年間(1394年〜1427年)に在住したとなっていますが師親が関東に戻り片倉城を築城したとは考えられず大凡師親と同じ広元を祖とする長井氏によって築かれたと考えられています。
JR横浜線片倉駅から見た片倉城