落武者の里、日原

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 古来より奥多摩はソマノホと呼ばれ良質の杉、ヒノキな産地でした、それを切り出し商う事が日原の主な産業だったのです。

中世日原イメージWMV動画

 東京都奥多摩町日原は今から500年程昔に戦国の乱を避けてこの地に逃れた落武者により切り開かれた里です、新編武蔵風土記稿に(原島丹次郎友一といひしが、天正年中の乱を避けてここに来りしより)とあります、相次ぐ戦国の争いを避けて武蔵七党、丹党原島氏は故郷の武蔵国大里郡を離れ此処に移り住んだのです、当時日原は四方を険しい山に囲まれ田畑を開拓する事が困難であり主な生活の糧は山から産物と林業でした。

倉沢のヒノキ

 日原には武蔵七党、丹党の守護神丹生社が祭られています、これは原島氏が丹党の流れである事を意味しています。

秩父丹党守護神丹生社

秩父と奥多摩の繋ぎの宿

 日原の集落から日原街道を北へ進むと秩父の山々へと向かいその山々を越えると奥秩父へと出られます、中世日原は秩父との交易が盛んに行われていたのです、日原の集落は秩父、奥多摩地方を結ぶ繋ぎの宿でもありました。

 秩父三峰神社で毎年8月に行われる獅子舞の儀式は日原の一石山神社からその原型が伝わったと云われています。

 中世、日原と秩父地方は宗教、文化と多面的に影響を受けあっていました、また秩父浦山口方面に原島姓の家々が数多く見られるのは奥秩父と日原の交流が盛んに行われていた一つの証です。

一石山神社

(日原街道と日原の集落)

 その昔、山岳信仰が栄えていた頃、この地下大聖堂で宗教的儀式が行われていたのでしょう。

 鍾乳洞の奥に存在する大空間

日原鍾乳洞

 賽の河原と呼ばれる地底を流れる河があります。

 日原には全長800mにも及ぶ関東随一の鍾乳洞があります、かつては山岳信仰で栄えた聖地でした、その奥には広大な空間が広がり地下聖堂を思わせる様相です。