木材の切り出しから輸送まで

(木材輸送路数馬の切通)

武州の城topへ
多摩方面へ

 古代、中世、江戸期の頃杣保から切り出された木材は用途に応じて適当な長さに切断され枝などの突起物が切り落とされます、物によっては木材を仕上げ加工する場合もありました、それら木材は一端輸送用のソリに載せて麓の河川まで運ばれ多摩川本流で筏を組み多摩川流路で平野部まで輸送されていました。

木材の切り出し

 江戸期の頃まで大木の切り出しは斧を使用していました、木炭などに使用する細木などは鉈でまにあわせていましたが樹齢数百年の大木は数人がかりで四方から斧を打ちこんで切り倒していたのでしょう、切り倒された大木は小引鋸で枝などが切り落とされます、また注文内容によっては手斧(チョウナ)と呼ばれる道具(鉋の原型の様な物)で仕上げ加工されます。

(江戸期まで使用された木材加工道具)

左から斧、小引鋸、手斧(チョウナ)

木材の輸送

 切り出された木材は古代から伝わる修羅と呼ぶ大型資材輸送用のソリに載せられ麓の多摩川流域まで運ばれます。

修羅

 古墳時代から伝わる大型の資材を輸送する為のソリで古墳の石室に使う巨石の輸送や奈良期平城京の建設に使用さいていました、

 修羅は二又に分かれた一本の原木を加工して造られました、修羅による資材輸送は中世の頃まで行われています。

 多摩川流域まで運ばれた木材はそこで筏が組まれ多摩川を輸送路として配送されます。

数馬峠に見る街道筋の整備

 切り出した木材、採掘した石材など大型の資材を輸送する上で街道筋は大きな役割を果たしていました、また山間部と平野部の交易の活性化など杣保で生活する人々にとって街道筋の整備は重要な事です、奥多磨町のJR白丸駅近くの数馬峠では江戸期から大正期にかけて幾度か街道整備工事が行われそれら旧街道筋の遺構が現在も残っています。

数馬の切通

 元禄年間1750年頃に開通した切通です、この切通が開削される以前は此処より上手の峠に街道が通っていました、切通が開通する事により青梅と甲州筋が一本の街道筋で繋がり奥地への物品の輸送が可能と成ったのです、工事は大変な難工事で石盤に火を焚いて水をかけツルハシなどで叩いて開削したと云われています、切通は前後二ヶ所で開削され付近には江戸期の旧街道筋も見られます。

二ヶ所目の切通

江戸期の街道筋

嘉永年間の数馬の大橋

 1850年頃二ヶ所の切通の間から澤を挟んだ向側の尾根の街道筋へ木橋が架けられていました、馬、荷車をスムーズに通行させる為か橋は手前の狭い切通を避けるかたちで渡されています、この橋は大正期に此処より下手の旧国道が開通するまで通行可能でした。

旧青梅街道数馬隧道

 1923年(大正12年)数馬峠の下手に旧青梅街道白丸トンネルが開通し木材、石材、石炭などは陸路による輸送が可能と成りました。