滝山城の歴史

関東、歴史旅行情報

こちらもよろしくお願いします、新しいサイトです、武州の城を超える情報が盛り沢山です。
武州の城topへ
多摩方面へ

 高槻城を築きあげた大石氏ですが三浦氏を滅ぼした小田原北条氏が小机、津久井、玉縄、山中城を前線基地として武蔵侵攻の態勢を組みます、津久井城から15km北に在る高槻城は真っ先に北条方の標的にされるのは当然の事であり、高槻城では北条の大軍を前に持ちこたえる事ができないと判断した大石氏は高槻城よりも更に堅固な城の築城にせまられました。
 大永元年、大石定重は高槻城から南東へ2km多摩川の河川沿いと甲州道との間の台地に滝山城を築城します、これで防衛態勢は磐石と思えたのですがそれから3年後の1524年(大永4年)江戸城代太田資高が主君扇谷上杉朝興を川越城へと追い出して江戸城を北条氏綱に明け渡してしまったのでそれまで江戸城方面に向けられていた北条氏の戦力は全て滝山城に向けられる事になりさしもの滝山城も此れでは耐え切れない為、定重の子、定久は第一次国府台合戦で北条氏が勝利したのを期に1538年(天文7年)、北条氏に降伏し軍門に降りました、北条氏の大石氏に対する実質的支配行動が行われたのはそれから21年後の1559年(永禄2年)に北条氏康が3男氏照を大石定久の養子に入れて家督を氏照に継がせ、事実上大石氏の所領と持ち城を手中に収めてからです、軍門に降ってなぜ21年もの歳月を掛ける必要があったのかは天文7年の時点で定久は降伏しましたが他の大石一族の中には今だ北条氏に抵抗し続ける者もあり、それら大石一族が全て北条氏へ降ったのが永禄2年頃であったからです。又小田原衆所領役帳が完成したのもこの年です。

北条氏照入城

 木曽義仲を祖とする大石氏は元々は信濃国の国人で南北朝の時代、山ノ内上杉氏に忠誠を尽くし幾つかの軍功を立て入間郡、多摩郡に13郷を与えられ、1356年(延文元年)武蔵国二ノ宮(あきる野市二ノ宮?)に移り武蔵国守護代兼任目代職になったとされています。守護代職はさておき目代職とは在庁官人達の監視役的立場で奈良時代頃からその役職はありましたがこの時代、室町初期においては国人領主又は土豪達のまとめ役で大石氏は南多摩方面の在地武士による軍事同盟、南一揆(平山氏、小宮氏、二ノ宮氏、由井氏、立川氏など武蔵七党の旧西党のメンバーが構成員)を統率するのが目代としての役目でした。
 大石氏は八王子から県境を越え入間郡、高麗郡にまで至るまでの広大な領地を所有し武蔵守護代として山ノ内家中で白井長尾氏と肩を並べる有力家臣であったのです。享徳の乱の最中、大石氏は顕重の代、1458年(長禄2年)に二ノ宮から秋川を挟んだ対岸の高槻に城を築き本拠地を移転させます、高槻城の築城は太田道灌の江戸城築城とほぼ同時期で築城理由は江戸城の築城と関係ありと思われ、この頃にニノ宮の館よりも堅固な城郭が必要だったのでしょう。

 北条氏照により滝山城は大改築され、他の八王子近辺の支城も又、同様に改築されました、その改築は新規築城と言ってもよいほど大規模なもので城の西側と南東側の屋敷郡もこの時に造られたのでしょう。
 1569年(永禄12年)武田信玄が今川氏の領内へ侵攻した事により甲相同盟は破棄され北条、武田の両氏は敵対関係と成りました、同年武田信玄は小山田信荗の軍勢を小仏峠より八王子に侵入させたので氏照は至急街道筋の廿里砦へ兵力を差し向けました、その間に信玄は本隊を上野国から武蔵国へ入り、多摩川を挟んだ滝山城の対岸、拝島に布陣して滝山城へ猛攻を掛けます、武田軍は滝山城の三ノ郭まで落としニノ郭に攻めかかりますがニノ郭の二階門で氏照が直接指揮を執り、必死の防戦に武田軍は先へ進む事ができず、これ以上の犠牲は無用と捉えた信玄は滝山城を捨て本城小田原城へ軍を進めました。
 さてこの戦いには幾つかの反省点が残されています、氏照は当初武田の侵攻は檜原方面から進入し秋川沿いを進軍すると計算していた為、檜原城を起点に秋川沿いに戸倉城、網代城、戸吹城と守りを固めていました、しかし武田軍に小仏峠より背後を突かれたのです、又滝山城は対岸、城の正面から攻撃されたにもかかわらず脆くも三ノ郭まで落とされてしまい、台地を利用した平山城では軍略に秀でた武田軍の攻撃に対して十分な守りとは言えませんでした、そこで進入された小仏峠に近く滝山城より更に険しい山城で堅固な要害が必要となり八王子城が築城されたのです。八王子城完成の時期は定かではないのですが完成後、氏照は八王子城に入り滝山城は第一線を退いたのですが政務だけは当面、滝山城で行っていました、しかし八王子城に城下が整備されるとその執行もそちらへ移されて滝山城の役割は終演を向かえました。

 滝山城は関東管領山ノ内上杉家の家臣で武蔵国守護代を勤めた大石氏により築城されました。1516年(永正13年)三浦氏を滅ぼした北条氏は小机城、津久井城、玉縄城、山中城を攻略、武蔵侵攻の準備を整えます、それに対抗して大石定重は1521年(大永元年)滝山城を築城しました。

武蔵守護代大石氏

武田軍八王子乱入