谷保の城山の歴史

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谷保の城山の遺構
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 1777年(安永6年)府中の弥勒寺から発見された板碑に「津戸勘解由左エ門菅原規継 延文五年(1360年)七月十日 子刻死去 沙弥道継」と刻まれていました、延文とは14世紀中頃の南北朝時代に北朝方が用いた年号で津戸氏は南北朝の戦乱の最中までこの付近を領有していたと考えられ谷保城もまた北朝方に属する城であったのでしょう。
 谷保城は同時期に築城された南朝方の城である青梅今井城と縄張状況が類似していると言われています、室町初期には谷保城や今井城の様に領主の館を中心に縄張を拡張増設して城とした多郭式の城郭が幾つも在りました。

 谷保城の住人津戸三郎の正式名は津戸三郎菅原為守で菅原道真の三男菅原道武の子孫です、菅原道武は父道真が九州の大宰府に配流されたのと同じ頃に武蔵国に流され谷保の地に居住して後に道真の死にともない谷保天満宮を建立した事で知られています、さて津戸三郎は道武から数えて7代目となり源頼朝の家人でした、石橋、安房の合戦で戦功を立て1195年(建久6年)頼朝の上洛の際に従軍したとされその時に法然上人より教えを受けて出家し念仏に帰依します、晩年80歳の時に浄土往生を望みそれまでの殺生を悔いて切腹をするのですがその時点では死にいたらず翌年死去しました、また切腹の時に流れ出た血で妻子宛に手紙を書いたと云われています。

北朝方の城

 「新編武蔵風土記稿」に「城跡 村の南にあり、三十間四方の地周廻に土手あり、又南に続きてすこしの土手あり、此地に神明社あり、小社なり、伝へ云う、津戸三郎居住の跡なりと、又ここより三丁程を隔て塁跡とおぼしき所あり、櫓台或は土居の遺跡あり、誰の住跡と云を伝ず」また「江戸名所図会」には「空堀城門の跡と覚しき所も見えて、四方四町あまりの封境なり、土人三郎殿屋敷跡と称す」、「新編武蔵風土記稿」と「江戸名所図会」によれば谷保の城山の住人は津戸三郎としています、この谷保城は三田氏館とも呼ばれていますが近年の此の辺りの土地所有者が三田家でその名字から三田氏館と呼ばれていたので青梅三田氏とは関連性はありません。

津戸三郎について

(南方面から見た谷保の城山)