戸吹城の歴史
戸吹城は小田原北条氏と甲斐武田氏の軍事同盟である甲相同盟が破棄され双方の緊迫感が一気に高まった1568年(永禄11年)以後に築城されたと考えられています、武蔵名勝図会に「地域住民の話ではこの城は築城半ばに至らず地形がふさわしくない事から工事を取り止めた」とありますが城の所在地の地名である根古屋が形成されていた事と堀、郭などが確りと区画されている事からこの城は大凡完成していたと考えられ築城後早期に廃城となったのでしょう。
意外な結末
(秋川の防衛線)
秋川の防衛線
1568年(永禄11年)武田信玄は今川氏の所領である駿河に進攻します、それに対して北条氏康は今川氏支援の為に駿河に派兵し1554年(天文23年)に結ばれた甲相同盟はここに破棄されます、それにより秩父郡、多摩郡などの武田家の所領に隣接する地域では臨戦態勢が布かれ此処多摩郡に措いては甲武の国境を越えた武田軍が秋川沿いを進攻してくると予測して本城滝山城の秋川沿いの支城である高月城、戸吹城、網代城、戸倉城、檜原城を築城もしくは改築強化し防衛線を張ります、戸吹城はその防衛計画の一環として築城されたと考えられています。
秋川河川沿いを支城で固めて十分な防衛態勢布いたのですが武田軍は予想外に小仏峠を越えて滝山城の背後を突いてきたのです、滝山城はニノ郭まで攻め込まれ落城寸前となったのですが辛くも守り抜きました、城主である北条氏康の二男氏照は防衛上の欠点を認め本城を新規に築城した八王子城に移転します、この時点で秋川の防衛線はあまり重要視されなく成り戸吹城、網代城など必要最小限の縄張の小規模な城は廃城または第一線を退くかたちと成ったのではないでしょうか?
これら秋川沿いの支城は既に小田原北条氏の軍門に降っていた大石氏の傘下である南一揆(武蔵七党の旧西党諸氏により構成された軍事同盟)の平山氏、小宮氏、二ノ宮氏などがその守備に付いてました。
網代城から見た戸吹城
秋川沿いの格支城は2kmから4km間隔で互いに目視できる位地に在り狼煙などで連絡を取り合っていました。