安保氏館の歴史
武蔵国内外の領地を受け継いだ分流安保氏ですがこれで安泰というわけでわありませんでした、1361年(正平16年)畠山国清が鎌倉府に対して反乱を起こします、足利尊氏の二男鎌倉公方基氏は安保泰規に出陣を命じるのですが泰規は此れに応じず畠山国清に内応し基氏の勘気を受け領地を没収されます、その後安保郷と児玉郡の領地は返還されたのですが以前よりも格段少ない領地と成り家中の者に十分な知行地を宛がう事ができなく成ってしまい安保氏は苦境の時代に入ります、この状況を打開すべく安保氏は1380年(康暦2年)小山義政の乱で鎌倉公方足利氏満に従い更に1416年(応永23年)上杉禅宗の乱で安保宗繁は鎌倉公方持氏に忠孝をつくしその行為の報酬として児玉郡、榛澤郡、秩父郡のほぼ全域を新たに領有する事となるのですがこれら地域の領主達の藤田氏、秩父氏、白鳥氏、岩田氏などは安保氏の配下に組み込まれるのを拒み安保氏の統治を実力で阻止しようとしたので名目のみの統治に止まり事実上領有は叶わなかったのです。
安保氏の領地争奪戦
1333年(元弘3年)安保道潭は新田義貞の倒幕に際して幕府方の金沢貞時、桜田貞国に従い討ち死にしその遺子達は中先代の乱で北条氏の再挙を企てた北条時行に吸応し敗退します、これにより安保宗家は断絶していったのです、しかし一族の安保光泰は一貫して足利尊氏に従い中先代の乱でも功績があったのでその恩賞として旧惣領家の家督を全て受け継ぐ事に成ります、その所領は本領の武蔵国賀美群安保郷と同国秩父、児玉、騎西、榛澤の各郡内更に信濃国、播磨国、備中国、下総国、出羽国の内に存在していました。
安保氏は武蔵七党丹党の出で平安末期に実光が安保実光と称して初代党首と成ります、実光は木曽義仲追討、一の谷の合戦と源範頼に従軍し戦功があり奥州征伐に措いても先陣を勤めるなど鎌倉幕府からの信認を受けます、また実光の子安保実員の娘は執権北条泰時の後室で次男時実の実母でありその関係上安保氏は北条氏と密接なつながりをもっていました。
惣領家滅亡
下の図を見ると安保氏の本領賀美郡安保郷は武蔵国と上野国の境に在り領内を当時の主要幹線道鎌倉街道が通りその近辺に安保氏の城館が点在しているのがわかります、戦国期安保氏の所領は軍事的に重要な位置に在りその事から乱世においての安保氏は新旧勢力争いの狭間に立ちながら領地経営を行っていかなければなりませんでした。
乱世の安保氏の動向
1480年(文明12年)安保吉兼により築城されました、戦乱の時代に備えた安保氏の本格的山城です。
金鑚御岳城
(Googleアース使用)
1454年(享徳3年)鎌倉公方足利成氏は関東管領山ノ内上杉並びに扇谷上杉氏に宣戦布告し享徳の乱が勃発します、当初安保氏は鎌倉公方成氏方に属していたのですが山ノ内上杉氏が雉ヶ岡城を築城し更に拠点を安保氏館から西7kmの上野国平井城へ移すと安保氏は一族の安泰を図り山ノ内方へ属します。
金鑚御岳城の麓には武蔵ニノ宮とされた金鑚神社が在り1534年(天文3年)安保全隆が多宝塔(国指定文化財)を寄進しています。
金鑚神社多宝塔
1546年(天文15年)川越夜戦で関東管領山ノ内上杉憲政、古河公方足利晴氏、扇谷上杉朝定の連合軍は北条氏康に大敗し管領上杉憲政は平井城に撤退します、これを期に藤田氏、本庄氏など北武蔵の武士団は北条氏に降伏しますが安保氏は依然として北条氏に抵抗を続けます、1552年(天文21年)北条氏康は安保全隆の守る金鑚御岳城を攻撃し落城させました、当時金鑚御岳城は平井城の前線の要害であり金鑚御岳城が落城する事により上野国の有力武士団は続々と北条方に投降し上杉憲政は平井城も退去せざるおえなく成りました、その後の安保氏ですが関東管領職を憲政より受け継いだ長尾景虎(上杉謙信)が1561年(永禄4年)に関東侵攻すると再起をはかり北条氏に組します、それにより上州所領を宛がわれ正式に北条氏の被官と成ったのです。