昭和63年の発掘調査により安保氏館は南北230m、東西160m程の方形状の堀が確認され更にその内側にも同じく方形状の堀で区画された郭が存在していた事が明らかに成っています、館の大手口は鎌倉街道に面していて交通の要所に館を築いた事がうかがわれます。
主郭
館は何期かに分けられて改築されています、中心の郭は大凡15世紀後半頃に形成されたと考えられています。
15世紀後半改築以前の館
改築以前の館は館と言うより領主の屋敷とその周辺集落を堀と土塁で囲んだ防衛の為の区画地帯の様な状況でした。
館内部に存在した畑
昭和63年の発掘調査で館の外堀内側に畑、井戸の跡が確認されています、鎌倉後期から室町前期にかけて人口の増加にともない関東地方の武士達は領地不足に悩まされていました、一地域の管理を任される程の上層部の武士は別として下級の武士達は農民に田畑を委託するだけの所領は与えらず自ら田畑を耕作して半農半士の生活をしていたのです。
大手口
館の大手口は鎌倉街道につながりそこに元阿保の集落が存在していました。
阿保神社
館の西側、集落の外れには安保氏(阿保氏)がこの地に土着した時に建立したとされる阿保神社がありました。