日尾城の歴史

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 1568年(永禄11年)小田原北条氏と甲斐武田氏との同盟関係は破られ翌年の永禄十二年に突然、武田勢は秩父に侵攻してきました、秩父方面の拠点鉢形城は包囲され高松城、千場山城、天神山城などの各支城は武田の重臣、山県三朗兵衛、小幡図書ら別働隊の攻撃を受けます、日尾城も同様にそれら支隊により攻撃されました、しかし城主諏訪部定勝はその前日から客人を向かえて酒を飲み交わし泥酔状態で寝込んでしまい起き上がる事ができずにいました、しかたなしに定勝の奥方が軍配を取って指揮をとり武田の軍勢を追い払ったのでした、武田の秩父侵攻は失敗に終わりましたが城主定勝はこの様な事は二度とあってはならないと鉢形城主北条氏邦に平謝りに謝り後々酒を断ったと伝えらています。

永禄十二年の武田勢侵入

 日尾城が築城されたのは15世紀の後半頃で奥秩父に勢力をもっていた長尾景春の支城の一つであったと伝えられています、永禄年間には秩父方面に力を延ばした小田原北条氏の城と成り諏訪部遠江守定勝を城主に添えて志賀坂峠、土坂峠を越え秩父に侵入してくる甲斐武田勢に対しての第一防衛線として重要視されます、当時、日尾城は吉田の楯と呼ばれた龍ヶ谷城と並び上野国と秩父との境を守る最前線の出城でありました。

 同年、現秩父市寺尾に在る寺尾城が武田勢の奇襲受けて落城し秩父大宮郷を始め奥秩父一帯は一時武田氏の勢力圏となります、当時この辺りは武田氏と北条氏の家臣達が入り乱れるかたちで勢力を覇っていました、近隣の各城が敵どうしの状態であったのです、その後、武田氏、北条氏は和解して奥秩父は北条氏に返還されますが以前の甲相同盟の様な密接な同盟関係ではなく双方の利害に元にした一時的な休戦状態であり何時又、武田勢が秩父に侵攻してくるか分かりませんでした、その為、日尾城は警戒を怠る事ができなかったのです、事実、武田勝頼は幾度と無く秩父、鉢形城へ攻撃を仕掛けています。
 1582年(天正10年)武田氏が滅亡して要約と奥秩父にも安泰が訪れるのですが1590年(天正18年)小田原の役により鉢形城は落城して日尾城は廃城と成りました。 

武田、北条の秩父攻防戦