金尾要害山城の歴史

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 当初金尾山城は本郭とニノ郭がその縄張であったものを三ノ郭と南郭を増設延長し街道を挟んだ対面に出郭を設けて峠道を封鎖したのです、当時主要街道筋であった旧秩父道(秩父往還道)を封鎖する大胆な方法が功したか否かはわかりませんが敵の盲点を突く事を得意とする武田軍に兵法に対して必要な防衛策であったのでしょう。

 1546年(天文15年)天神山城主藤田重利は北条氏康の三男乙千代(北条氏邦)を養子としてむかえ入れ事実上藤田氏は小田原北条氏の配下と成り長瀞町岩田の天神山城、皆野の千場山城、金尾山城、末野の花園城は北条氏の持ち城となります。
 1569年(永禄12年)突如として武田勢が秩父に進入し天神山城、千場山城などの支城を包囲して本城鉢形城に総攻撃をかけます、辛くも北条方は武田勢を撃退し危機を脱するのですがここに防衛上の問題点が浮き彫りになったのです、当時熊谷市の石原で中山道から分岐した旧秩父道(秩父往還道)は寄居(鉢形城付近)を通り末野(花園城前)を抜けて波久礼の渡し場で釜伏峠方向と金尾峠を越え岩田へ向かう道筋に分かれていました、金尾峠の道筋を逆方向から進むと岩田から金尾峠を越え末野、寄居まで直に出られます、更に釜伏峠から鉢形城の大手方面に向かう道筋が在り金尾峠から波久礼近くで迂回し釜伏峠へ向かいそこから鉢形城正面に出られるのです、その為天神山城、千場山城を押さえられ金尾峠から釜伏峠に回りこまれた場合鉢形城は全く無防備となります。

旧秩父道(秩父往還道)封鎖

 金尾山城が築城された1532年(天文元年)当時花園城を拠点とする藤田氏は秩父地方統一の為長瀞、皆野方面へ侵攻しつつありました、1416年(応永23年)上杉禅宗の乱以後長瀞、皆野町付近は丹党白鳥氏が領有する所で藤田氏はその地域一帯を制圧下として秩父地方の諸豪族を一つにまとめようとしたのです、その前線要害として金尾山城を築いたと考えられます。

藤田氏秩父侵攻の前線要害

(Googleアース使用)

 金尾要害山城の資料は乏しく「新編武蔵風土記稿」に(金尾弥兵衛と云う者居れとぞ)とあるのみで他には見られません、その築城年代は大凡1532年(天文元年)頃で隣接する長瀞町岩田の天神山城と同時期とされています。

 金尾山城から花園城、寄居方面を一望できます。

 金尾山城より花園城、花園御岳城を遠望

 以上の点から岩田(天神山城)方面からの街道筋を押さえる必要があり金尾山城を街道筋まで延長し街道を封鎖する方法取ったのです。