和銅山露天掘り遺跡
(和銅発見を祝して建立された黒谷聖神社)
武蔵国北部は新羅、高句麗からの帰化人によってはやくから開拓されてました、高句麗王若光が戦乱を避けて高句麗国より亡命してきた事により715年(霊亀2年)元正天皇は駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の高句麗人1779人を武蔵国に集めて新たに高麗郡を開くまでに至りましす、それら帰化人達により銅の採掘法、精錬法などが伝えられ秩父地方において一大和銅生産業が始まったのです。
和銅の発見
707年(慶雲4年)従六位下日下部宿祢老、同津嶋朝臣堅石と新羅国からの帰化人金上无の三人が黒谷の和銅山麓の渓谷を馬で通りかかったところ渓流の流れの中に自然銅を発見します、三人は即座に銅の固まりを郡衛(郡役所)に持ち込み金上无が中心になり郡役人達といろいろと調べた結果大陸でも極めて珍しい純度90%を越える優良な自然銅である事が分かりました、発見された自然銅は朝廷に送られその事が報じられると時の元明天皇は大いに喜ばれ年号を慶雲から和銅と改め鋳銭司長官多治比真人三宅麻呂と朝鮮半島からの鉱山技師を派遣し和銅採掘に従事させたのです。
露天掘り和銅採掘場
秩父鉄道和銅黒谷駅を下車、国道140号線を北上し聖神社へ向かいそこから案内版に従って山頂へ向かう途中に当時の露天掘り採掘場址が残されています。
採掘された和銅
採掘された和銅の全ては朝廷へ送られていました、当時の朝廷は大化の改新後の律令体制国家の確立と平城京遷都の為に多大な経費を消費していました、此処黒谷の和銅山で採掘された和銅はその財源となったのです。
和銅開珎
黒谷の和銅発見を期に708年(和銅元年)朝廷は貨幣経済確立の為唐の通貨開元通宝を手本に国内初の貨幣和銅開珎の銅銭と銀銭を発行しました、しかし現状は発行数の絶対的不足と物々交換経済主体の地方において信用がなされず貨幣としての機能を果しきれませんでした、律令体制下で地方から集めた税収を又地方へと循環させ経済の活性化をはかる為の貨幣が意味をなさなくなり中央は一方的に地方から重税を吸い上げるだけの律令体制となってしまいました、この時既に律令体制の一角が崩れてきていたのです。
唐の開眼通宝と比較すると多少歪に加工されているようです、当時唐の銅加工技術は国内の加工技術よりレベルが高かったのでしょう、ちなみに当初和銅開珎の通貨としての価値は一枚を一文として米2Kg、労働者の一日分の給金に相当したそうです。