熊倉城の歴史

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 1480年(文明12年)長井城を太田道灌に攻め落とされた長尾伊玄入道景春は現秩父市両神の高佐須城(塩沢城)へ籠城します、しかし此処もまた落城し景春は秩父郡最後の砦である日野城(熊倉城)へ籠もりました。
 熊倉城が築城された時期は大凡秩父郡において道灌、景春の攻防戦が展開される以前と考えられ当初景春は道灌との決戦の為に白井長尾氏の所領である秩父郡内に長尾城、日尾城、塩沢城、熊倉城を築城し守りを固めますが熊倉城を残して全て道灌に攻め落とされ事実上当城が道灌との最終決戦の場と成ったのです。

日野城(熊倉城)の決戦

 塩沢城を道灌に落とされた長尾景春は熊倉城へ籠城します、奥秩父はそもそも白井長尾氏の知行地であったので景春に味方をする武士団も多数いたと思われますがこの時点ではその大半が景春方をはなれ道灌方へ付いた為に熊倉城に籠城する兵力は会戦当初と比較してわずかであったと考えられます、伝承によれば熊倉城には致命的な欠陥がありました、それは水の手、謂わば井戸が城内に無かったのです、他の伝承によれば馬に米粒を貼り付け城内に水が有るように見せたとも云われています(多少信じがたい??)、何れにせよ城内に水が無い為に下手の澤へ水を汲みに行っていた所を道灌の兵に見つかり水の手が無い事がバレてあっけなく落城し景春は又も城を後に逃走したのでした。

その後の長尾景春

 日野城の決戦の後、享徳の大乱の首謀者である古河公方足利成氏は幕府と和睦し太田道灌は主君扇谷上杉定正に謀殺され時代は一変します、その後景春と敵対していた関東管領山ノ内上杉顕定と扇谷上杉定正は対立して長享の乱が勃発1488年(長享2年)に両上杉氏は須賀谷原(比企郡嵐山町)、高見原(比企郡小川町)で激突し足利成氏は定正を支援、この時長尾景春は何処にどう滞在していたのか扇谷上杉定正の陣へ参陣しています、太田道灌の子資康は山ノ内上杉顕定に加勢し過去の大乱に措いて敵味方が入り乱れての合戦と成ました、この合戦以後景春は一点して扇谷方に味方し管領山ノ内上杉氏とは対立関係にありました、更に伊豆国を制圧した伊勢新九朗宗瑞(北条早雲)が扇谷、長尾の連合軍に参戦、1504年(永正元年)武蔵国立河原で扇谷上杉朝良、早雲は顕定と対陣し此れを破ります、翌年山ノ内上杉顕定と扇谷上杉朝良は和睦し同年景春は白井長尾氏の旧本拠地である白井城へ帰り要約と白井長尾氏再興の願いが叶ったのです、そして景春は1514年(永正11年)の夏に死去し1476年(文明8年)から数えて40年近くに及ぶ景春の闘争劇はここに終演したのでした。