交易の十字路秩父大宮郷

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黒谷の和銅採掘場址

和銅と交易で発展した町

 戦国期、秩父盆地に栄えた大宮の町とはどの様な町であったのでしょうか?奈良時代から秩父盆地では銅の産出が行われ日本全国へ送り出されていました、その和銅の売り上げが秩父大宮に多大な財力をもたらしたのです、又江戸期以前から秩父地方では養蚕が家業として行われ、生産、市出しされた絹を他の地方の行商人達が買い付けていました、中世大宮郷では他地域との交易が盛んに行われていたのです。

 江戸期の始め1644年(正保元年)に作成された武蔵田園簿(武蔵国内の村、集落の年貢の割合を記載した書類)によれば秩父盆地内61村の年貢の割合を永楽銭(金)で換算され記載されています、江戸期には税を年貢と言うかたちで直接米など穀物で治めるのが通常であったので秩父盆地が税を金に変え治めていたと言う事は江戸期以前から此の地域にすでになんらかの産業が盛んに行われ大宮郷には其れなりの町が存在した事に成ります。

 市立ある所凡九町半餘、路幅凡六間、坤より艮に達す、

(新編武蔵風土記の稿)

秩父方面へ

 又一条の通路東の方横瀬村より来り、乾の方荒川筋武鼻の渡にかかり寺尾村に達す、

武蔵、甲斐、信濃の交易の十字路

 秩父大宮から現、大滝方面に向かい雁坂峠を越えれば甲斐へと出られ、現、小鹿野町赤平川沿いを軍平、日影を抜けて志賀坂峠を越えれば信濃国に出られます、反対に横瀬に向かい正丸峠を越え高麗川沿いを進めば江戸、河越へと向かう道筋と繋がり大宮町は武蔵国と甲斐、信濃を結ぶ交通の接点に位置しているのです、この事から戦国末期には武蔵国と甲斐、信濃を結ぶ商い場として大宮の町が成立したのです。

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 戦国末期、秩父山間盆地に忽然と拓けた大宮の町は和銅と絹で財力を貯え、交易の十字路として武蔵国北端に栄えた町であったのです。