永田城の歴史

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 永田城を築城したとされる中村氏は武蔵七党、丹党の主家です、武蔵七党とは桓武平氏の分流で丹党、横山党、野与党、私氏党、西党、村山党、猪俣党、児玉党と丹党系秩父氏を合わせて坂東八平氏と言われ、それぞれ上方より下向して武蔵国に分布してさらにそれら党が幾つもの氏族に分かれ全国に広がっていった関東平氏の祖です、その武蔵七党、丹党の主流中村氏は初代時重に始まり2代時信は源頼朝に仕え軍功があり、時信の弟時光は1190年(建久元年)頼朝に従い京へ上洛、中村氏は代々鎌倉幕府に仕え、幕府からの信頼を受けて秩父郡での勢力を確保します、その後1331年(元弘元年)中村氏は河越、加治、安保氏と共に後醍醐天皇の統幕計画鎮圧に加わり,1337年(延元二年)北畠顕家が京都を制圧した際にその討伐に足利氏に応じて中村実秦が結城氏に従軍しました、建武の中興から南北朝にかけて中村氏は騒乱の時代を乗り越えていったのです、しかし1416年(応永2年)関東官僚上杉氏憲が鎌倉公方足利持氏と対立(上杉禅秀の乱)、挙兵しましす、その際に中村氏は氏憲方に加わり丹党岩田氏の所領の皆野、長瀞に踏み込んで行きました、結果、上杉軍は敗退して中村氏はその所領の大半を失い駿河の今川氏のもとへ逃げさり配下と成ります、秩父に残った中村氏も影森まで後退、江戸期に至っては秩父武士の中に中村氏の名は消えてしまいした。

秩父の覇者丹党中村氏

 永田城が築城された時代は室町初期からそれ以前と言われています、この城を築城したのは武蔵七党(坂東八平氏)の丹党中村氏でした、その後、永田氏、寺尾氏、井上氏、諏訪氏と城主が代わり1590年(天正18年)北条氏滅亡の後に廃城となりました。

 中村氏衰退後の永田城は同族の永田氏、寺尾氏が入ります。
 1569年(永禄2年)武田信玄が秩父に侵攻、大宮郷付近を占領し永田城と付近の城、館を押さえました、信玄は永田城に三原午之助なる人物を配置します、三原午之助は数名の足軽を従える下級士官でしたが信玄より人物を認められて大宮郷代官を任ぜられ付近の武士団をまとめ政務と防衛にあたりました、武田氏衰退の後は午之助は北条氏邦の家臣と成り、姓を佐原と改め、更に井上三河守と名乗ります、元々三原とは信濃の井上姓であったのですが武田家に仕えた時点で三原を名乗ったのです、三河守がなぜ井上に姓を戻したかはおそらく井上姓は丹党中村氏と過去、血縁関係にあったので大宮郷の諸豪をまとめ上げるために必要だったのでしょう。
 その後、永田城へ三河守に代わり諏訪氏が入り1590年(天正18年)の北条氏滅亡、鉢形城落城の後に廃城と成りす、井上三河守はその有能さから当時、関東に進出し、新たな人材を多く必要としていた徳川家の旗本と成って行きました。

武田の家臣から北条氏、徳川家旗本へ井上三河守

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