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千場山城遺構

 此処千場山は天然の要害の地です、山頂の本郭を中心として四方に連なる尾根を掘り切りと細かな郭で仕切り東西の尾根の真中に水の手があり、東西の尾根より水の手を守れる仕組みとなっています。千場山城は花園城、虎ヶ岡城、金尾城、天神山城と同様に藤田氏の築城です、それら藤田氏の城は山頂の本郭は小ぶりで合戦時において城全体の指揮をとるだけ、城の要所、要所に石積み築く、少人数での防備を想定して掘り切りと中小の郭により細かく仕切られている、などの特徴をもっています。

山頂部の本郭

 

土橋

石積み

北側に尾根に在る二重の堀切

 北側の狭い尾根上には二重の堀切が在ります、1569年(永禄12年)の甲斐武田軍の秩父侵攻による千場山城攻撃の際に、武田軍はこの二重の堀切の阻まれ千場山城を占領できなかった。