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千場山城の歴史

 千場山城の歴史は築城者の藤田氏と秩父方面の歴史に大きく関係しています、藤田氏とは武蔵七平氏の一派猪俣党の一族で古くから寄居方面で勢力を張っていました、その藤田氏が秩父方面まで勢力を延ばし、後に小田原北条氏の軍門に下る過程で千場山城は秩父史の中で重要な役割を示していました。

秩父、新旧勢力交代の狭間で

 1416年(応永23年)上杉禅秀の乱以後、秩父の覇者、武蔵七党の丹党中村氏、岩田氏の勢力は衰退して行きます、変わって安保氏が秩父郡から児玉郡にかけて勢力を延ばす事と成るのです、藤田氏、白鳥氏、岩田氏などの在地領主達は鎌倉府の命により行政上、安保氏の勢力下に組み込まれるのですが、それら諸氏は素直に安保氏には従わず、それぞれ異なった領地支配体制を組んでしまいます、千場山城の在る皆野町と天神山城の在る長瀞町は丹党白鳥氏の支配下と成り、寄居町、美里町、児玉町は藤田氏の支配下と成ります。

対小田原北条氏の要塞

 1477年(文明9年)長尾景春の乱において藤田氏は山ノ内上杉軍に加わり戦っています、それ以後藤田氏は山ノ内上杉氏の幕下と成ります、1524年(大永4年)北条氏綱は扇谷上杉朝興の居る江戸城を奪い取り、次いで川越城を占領して北条氏は着々と武蔵支配を固めます、その間に藤田氏は北条氏侵攻の防衛手段として秩父在地領氏を勢力下に組み込み武蔵北部の防衛態勢を固める行動に出ます、其の為に皆野町、長瀞町で勢力持っていた白鳥氏を滅ぼして、長瀞町に天神山城、皆野町に千場山城を築き力を拡大し、奥秩父まで睨みを利かせると同時に小川町、東秩父方面からの北条氏の侵攻に備えます。

北条氏の軍門へ下る

 

 藤田氏は天神山城、千場山城を築き秩父氏、逸見氏、岩田氏、阿佐美氏、旧丹党など秩父在地領氏を束ね秩父全域を勢力下に置く事に成功します。しかし1546年(天文15年)事態は一変します、関東管領山ノ内上杉憲政、古河公方足利晴氏、扇谷上杉朝定の連合軍は北条氏康に大敗、扇谷上杉朝定は討死して山ノ内上杉憲政は上野まで後退します、後ろ盾を失った藤田氏の頭首藤田重利は北条氏の軍門に下る事を決め、北条氏康の三男乙千代(北条氏邦)を養子として受け入れ、自らは藤田重利から用土新左衛門と名を改め用土城へと退きます、このれによりは藤田氏が築いた秩父支配体制をそのままの状態で北条氏が受け継ぐ事になります。

幾多の戦火を乗り越え、そして落城へ

 北条氏の持ち城と成った千場山城ですが1561年(永禄4年)長尾景虎(上杉謙信)の関東侵攻の時と1569年(永禄12年)の武田信玄による鉢形城攻撃の時に上杉、武田勢の攻撃を受けますがいずれも他支城との連携と地域農兵の結束をもって食い止めています、しかし北条氏による秩父支配は用意なものではありませんでした、永禄4年の景虎関東進出の後に乙千代(北条氏邦)から用土新左衛門(藤田重利)通して秩父衆に発給した文書に「急度申越候、仍其郡之事、各致談合忠節肝要候、走廻次第知行之儀、可扶助、委細、用土図書助可申候、恐々謹言、  乙千代、花押」、(急遽申します、秩父郡において忠節を尽くし団結する事は重要な事で忠節を尽くした者には領地は今まで道理で安否いたします、詳しい事は用土図書助に伝えてあります、 乙千代)、用土図書助とは用土新左衛門(藤田重利)の事です、永禄4年の景虎侵攻の時に秩父衆と藤田氏の仲で景虎方に付く者が現れ、それら寝返いった諸氏を乙千代は排除、滅亡させる事無く寛容に受け入れ忠節を促したのです、この事は乙千代が藤田氏と秩父諸豪族との信頼関係を借りて秩父衆をまとめあげて武田、上杉謙信の侵攻から秩父方面を守るための方針でした、乙千代は再三の対外からの攻撃にさらされながらも秩父支配体制を固めていったのです、しかしその乙千代の努力も空しく1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐の際に鉢形城は開城、千場山城も落城し、後に廃城と成りました。