秩父方面へ
武州の城topへ

    農民大勝利! 
史上最強軍武田勢撃破

 1568年(永禄11年)武田信玄は駿河に出陣、今川氏真と戦い破ります、北条氏康は氏真を支援し駿河に兵を送り武田信玄と戦います、此れにより1554年(天文23年)に結ばれた甲、相、駿の同盟は崩れ、秩父方面に武田勢による侵略の恐れが出てきました。
 1569年(永禄12年)武田勢は土坂峠を越え秩父郡へ侵入してきました、突然の侵略に秩父格支城は十分な防戦態勢を取っておらず、武田軍は吉田の盾と呼ばれる日尾城、久長の竜ヶ谷城の防衛ラインを容易に突破して皆野に押し寄せ、軍勢を此処で二分、本隊は本城鉢形城を攻撃、支隊は千場山城の攻撃に掛ります、一方千場山城では家、田畑、収穫物を敵に奪い取られまいと付近の村々から農民達が武装して籠城します、元々秩父の武士はその大半が農兵で普段は田畑を耕し戦と成れば刀を取って戦う、といった生活をしていました、秩父農兵は幾度の戦いを乗り越え、結束力が強く城主の指揮の下に早い連携と土地勘を生かした戦法を持って戦う強力な部隊でした。武田方の攻撃が始まり平場で双方激突、此処では兵力に勝る武田勢が有利で籠城側は無理する事無く城に退却します、武田軍は千場山城の東、西、南側の尾根、大手茗荷沢と四方から攻め登ってきます、しかし千場山城の二重、三重と設けられた堀切、郭を越える事ができずに攻めあぐんでいました。

 武田軍はこの二重、三重の堀切を前に進む事ができなかった

 

 

 その時です、城のあちらこちらから武田軍の頭上にコブシ大の石が投げ下ろされてきました、農兵達は弓、鉄砲など飛び道具の絶対的不足を補うため城内に大量の石を持ち込んでいたのです、勾配の急な千場山から次々に投げ下ろされる石弾は勢いをもって武田軍を直撃、此れにはさしもの史上最強と唄われた武田軍も耐え切れず撤退せざるおえなくなり、城を後に甲斐へと退却して行きました、この時、城内から一声に歓声が上がり勝どきの声が城内いたる所から天高く響きわたったのです、正に通常非戦闘員である農民達の力で強敵武田軍を撃破したその瞬間でした。
 この戦闘は三沢谷の戦いとして後世秩父地方に語り継がれ、現在も千場山付近には強石、戦場と言った地名が残っています、千場山のセンバは後に戦場から付けらた地名で千場山城の本当の名は三沢谷の龍ヶ谷城と言います。