天神山城の歴史

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 天神山城は天文年間(1532年〜1555年)に関東管領山ノ内上杉氏の四家老の一人、藤田重利により築城され後に秩父郡を制圧した小田原北条氏の北武蔵方面の拠点と成ります。

藤田氏による秩父統一

 現、秩父郡長瀞町に天神山城が築城される以前、秩父郡は旧丹党に属する諸豪族や秩父氏、逸見氏などの中小武士団により分割統治されていました。1524年(大永4年)北条氏綱により江戸城が占領されると小田原北条氏の勢力が徐々に北武蔵へ侵攻してきます、藤田氏は関東管領山ノ内上杉氏の重臣として北条氏と対抗すべく秩父の諸豪族をまとめ上げる必要に迫られます、藤田重利は秩父の有力豪族で旧丹党の白鳥氏が勢力を張っていた現、長瀞町、皆野町へ侵攻して白鳥氏を滅ぼし長瀞町に天神山城、皆野町に千場山城を築城しました。天神山城築城により藤田氏は奥秩父までその力を伸ばし秩父氏、岩田氏、逸見氏、旧丹党の豪族をその支配下に組み込み秩父66郷を統一して本領の児玉、男衾郡とあわせて兵力を増強し小田原北条氏に対抗します。

小田原北条氏の北武蔵拠点天神山城

 1546年(天文15年)の山ノ内上杉憲政、扇谷上杉朝定、古河公方足利晴氏による川越城撤回作戦で北条氏康に山ノ内、扇谷、古河公方の連合軍は大敗して関東管領山ノ内上杉憲政は上野国まで後退します、強力な後ろ盾を失った藤田重利は自持ちの戦力だけでは北条氏に対抗できず仕方なく北条氏康に降伏し天神山城と所領を氏康に明け渡しました。
 氏康は三男乙千代(北条氏邦)を重利の養子に入れ秩父統治を計ります、当初乙千代は天神山城に入り北武蔵の拠点としました、しかし天神山城は仮の拠点で城の規模的にも政務を行う上でも実用的では無く秩父の諸豪族が全て北条氏の配下に組み込まれる事によりその必要性は無くなり乙千代は新規に増築された鉢形城へ移転しそこを拠点とします、残された天神山城は一時的に必要性は無くなりましたが1569年(永禄12年)北条、武田の同盟関係が破棄される事により状況は変わります、秩父方面は幾度も武田勢の攻撃にさらされ一時は奥秩父一帯を武田氏に占領されるまでに至りました、その都度天神山城は秩父防衛上の中心と成り武田軍の侵攻を食い止めたのです。しかしその天神山城も1590年(天正18年)豊臣秀吉による小田原征伐の際に鉢形城と共に西軍の大軍に包囲され落城し後に廃城と成り事実上城としての役割を終えたのです。