中世秩父の食文化

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 室町期から戦国期にかけての戦乱の時代であっても一般の農民達は田畑を耕作し食料の生産をし続けなくては成りませんでした、そして武士の大半を占める下級武士層の人達が農民をまとめ管理経営する体制を取っていたのすが秩父などの辺境地では時に農民も武器を取って戦う事がしばしありました、ではその下級武士、農民などは戦乱と食料の生産に明け暮れるのみの生活であったのでしょうか?しかし戦乱の時代においても庶民の喜びと楽しみを求める気持ちは現代人と同じで乱世の最中であっても人々はそれなりの生活文化を作り出していったのです、食の文化もその一つで、中世山間部では川魚、山菜、穀物、などを色々な手法で調理してその味覚を楽しんでいました、(味を楽しむ)、此れも又、庶民の文化なのです。

イノシシ鍋

 秩父地方にはその昔、イノシシ、熊、鹿、などが数多く生息していました、民家ではそれら動物を捕らえ鍋で味噌を入れ野菜と一緒に煮込み食べていたのです、又椎茸、シメジ、エノキダケなどキノコ類や山菜なども共に煮込むなど多彩な調理方法が在り炉辺で食べるその味は格別な物です。現在秩父の旅館、食堂など観光客相手にシシ鍋が出される店があり、その味覚を楽しむ事ができます。

川魚の石焼

 荒川、名栗川で釣れる鮎、虹鱒、鮠などの獲りたての状態で酒に漬け、あらかじめ熱しておいた平たい石の上に味噌で土手を作りその中で魚を焼き食べる、川魚の臭みが消え味噌と酒が染み込んだその味はとても珍味です。

秩父の茸

 中世の頃、秩父から飯能にかけての山では春にタラの芽、蕨、ゼンマイなど山菜、秋には椎茸、千本シメジ、舞茸、松茸の茸類が豊富にとれていました、それら山の幸は魚肉、野菜と一緒に汁物に入れるなど、食材に使われていました、山菜は当時流行した精進料理に使用されました。

秩父のおなめ

 所謂なめ味噌です、大豆、大麦を塩漬けにして発酵させた味噌を御飯にのせて食べたり、大根を入れ漬物にしたりします。

 山、川の幸と、麦、陸稲、野菜の農作物などの多彩な食材に恵まれた秩父地方では山間部ならでわの独自な食文化が生まれ、それに当時鎌倉で流行していた精進料理が加わり格地域で色々な調理方法があみ出されました。また大宮町の定期市には各家庭で作られた味噌、溜り醤油、酒、漬物が並べられて売り買いされ、秩父地方の人々は食を楽しんでいたのです。

コントン

 丹党高麗氏の祖は高麗人です、それら帰化人によって埼玉県内では大麦、小麦が広く栽培されていました。粉にした麦に米粉を混ぜ餅にしてペースト状にしたワンタンの様な物でコントンがあります、コントンは汁物に入れたり中に胡桃、野菜などを詰め餃子の様にして食されていました。

蕎麦の起源

 蕎麦の歴史は古く縄文期には既に国内で栽培されていました、当初飢餓などの為の非常食用に栽培されていたのですが次第に主食化され室町中期頃には年貢として収められるようになり、陸田の多い秩父でも広く栽培されました。元々は団子にして鍋や野菜汁に入れて食していたのですが後に蕎麦切りと言われ現在の様な麺状の物へと進化していったのです、蕎麦切りが最初に文献に登場するのが1574年(天正2年)信濃の国、定勝寺の記録に寺の修復に寄付をした人に対してその礼として蕎麦切りを出したとあり、その時代には既に蕎麦切りと命名されている事から関東方面では蕎麦を麺として食べる習慣があったのです。その頃の麺状の蕎麦は今見られる醤油ダレではなく味噌ダレで秩父には味噌ダレ蕎麦の伝統が今も残っています。